大判例

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東京高等裁判所 昭和41年(う)909号 判決 1968年3月30日

本籍 東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎一二四七番地

住居 右に同じ

塗装業 中垣好一

大正一四年三月三一日生

<ほか七名>

右中垣好一、野崎邦夫、山下寅吉、大沢清、中垣弥一、池田信二及び西村高見に対する電汽車往来危険、同未遂、電汽車往来危険破壊ならびに宇津木作一に対する電汽車往来危険、同未遂、電汽車往来危険破壊、強盗予備、窃盗各被告事件について、昭和三二年一一月四日東京地方裁判所八王子支部が言渡した有罪判決に対し、被告人大沢、同宇津木、同西村各本人ならびにその他の被告人らの各弁護人から適法な控訴の申立があり、これに対し昭和三六年五月一二日旧二審裁判所は各控訴棄却の判決を言渡したところ、各被告人から上告の申立がなされ、昭和四一年三月二四日最高裁判所は、原判決を破棄して本件を東京高等裁判所に差戻す旨の判決を言渡したので、当裁判所はさらに審理をし、次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

本件公訴にかかる電汽車往来危険、同未遂、電汽車往来危険破壊の事実につき、被告人らはいずれも無罪。

被告人宇津木作一に対する強盗予備、窃盗の事実につき、同被告人を懲役八月に処する。

ただし、この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件は上告審からの差戻事件であることと事件の特殊性を考え、本論に先だち、便宜〔従来の審理経過及び当審の審理状況〕を述べることとする。

本件公訴にかかる電汽車往来危険、同未遂、電汽車往来危険破壊の事実関係は、一審判決が有罪の認定をしたとおりであり、その大要は、国鉄青梅線で発生した前後五回にわたる列車妨害事件で、次のようになる。

「被告人ら八名及び岩井金太郎、石田春雄(岩井と石田は一審相被告人で、いずれも病気のため公判手続を停止されている。)は、八名ないし一〇名共謀のうえ、第一、昭和二六年九月一七日夜、小作駅構内二一号転轍器の基本軌条と尖端軌条との間に石を詰め、二二、二三号転轍器を定位から反位に切りかえ(一審判決判示第一事実。九月一七日事件と略称する。)、第二、同年一〇月一日夜、小作駅東方第三踏切付近に踏切警標を抜いて線路上に横たえ、河辺駅東方の線路上にも枕木一本と勾配標を抜いて横たえ(同第二事実。一〇月一日事件と略称する。)、第三、同月三日夜、小作駅西方第三踏切の基本軌条と枕木との間に石を詰め、その付近の線路上に粁程標を抜いて横たえ、同駅西方線路北側にある鉄道用電柱を鋸で切り、さらに同駅東方第五踏切の基本軌条と護輪軌条との間に石を詰め、同第四踏切付近の線路上に踏切警標柱を抜いて横たえ(同第三事実。一〇月三日事件と略称する。)、第四、同年一二月八日夜、福生駅構内五四号転轍器の挺子を定位から反位の中間まで移動させ、現場にさしかかった上り立川行二〇〇八号電車を脱線させ(同第四事実。一二月八日事件と略称する。)、第五、昭和二七年二月一九日朝、小作駅に入換作業のため停車中の下り一六三号貨物列車の後部残留貨車四輛を、二輛ずつに切りはなして二回にわたり羽村駅方面に押し流し、線路の下り勾配を利用して羽村駅を通過し福生駅まで走らせ、同駅に停車中の貨車に激突させた(同第五事実。二月一九日事件と略称する。)もので、被告人らは右五つの事件の全部又は一部の実行に加った(被告人山下は一〇月一日、一二月八日事件には関与せず、石田は九月一七日、一〇月一日事件に関与しない。)。」

そして、被告人らは昭和二八年二月上旬から五月下旬にかけて次々に同時又は各別に起訴された。

一審では、被告人らのうち中垣好一、野崎邦夫、山下寅吉、大沢清、中垣弥一、石田春雄らの冒頭手続で公訴事実を否認した組(以下否認組と称する。)と、宇津木作一、西村高見、池田信二、岩井金太郎らの冒頭手続で公訴事実を自認した組(以下自白組と称する。ただし、池田は途中から否認に変った。)の二組に分けて四年余の歳月にわたり審理を行い(石田と岩井の両名については、いずれも病気のため途中から公判手続が停止された。)、最後に否認組第七七回公判期日の昭和三二年一一月四日両者を併合して本件被告人ら八名に有罪の判決が言渡された(被告人中垣(好一)、同野崎は各懲役七年、被告人山下、同中垣(弥一)は各懲役四年、被告人大沢、同宇津木は各懲役三年――いずれも五年間執行猶予、被告人池田、同西村は各懲役二年――いずれも四年間執行猶予。)。

これらに対する第一次控訴審(以下旧二審と称する。)では、被告人全員が公訴事実を否認して争い、前後一八回の公判審理を重ね、その間事件発生現場検証のほか、弁護人、検察官双方申請にかかるほとんど全部の証人五〇余名等を取り調べた後、昭和三六年五月一二日控訴棄却の判決の言渡があった。

上告審である最高裁判所第一小法廷は、四回の公判を開いて弁論を聴いたうえ(第二回公判で、弁護人提出にかかる日本国有鉄道東京鉄道管理局長から東京弁護士会長にあてた「再照会のことに対する回答について」と題する――昭和二五年八月から同三〇年三月までの東鉄管内発生の責任運転事故の発生日時、原因、責任者等を記載した――「責任運転事故原簿」の写を添えた書面を参考として記録に編綴する旨を告げ、各裁判官の閲覧に供し、検察官に示した。)、昭和四一年三月二四日「原判決を破棄する。本件を東京高等裁判所に差し戻す。」との判決を言渡した。

上告審の破棄判決の理由によれば、本件公訴事実の重点は五回にわたる列車妨害の事実であるが、その中でも二月一九日事件は、他の四つの事件と比べ、論旨において問題とする点が多いので、まずこの事件について、一審判決を維持した原判決に事実誤認、審理不尽などの訴訟法違反があるかどうかを職権をもって検討すると述べ、次の三つの争点、すなわち、一、「サイドブレーキがかかっていたかどうか」(原判決が維持した一審判決の認定事実によれば、被告人らが本件残留四貨車付近に到着したあと、まず被告人宇津木及び岩井金太郎の両名が、後方から二輛目南側のサイドブレーキを外した、というのであるから、このサイドブレーキがかかっていたことが前提であり、果してこれがかけられていたかどうかが原審における争点の一つになっている。)、二、「本件貨車が二輛ずつに切りはなされたかどうか」(前記認定事実によれば、被告人らは、本件残留四貨車を各二輛ずつに切りはなしたうえ、二回にわたり押し出したというのであるから、果してそのように切りはなされたものかどうか、これまた大きな争点の一つとなっている。)、三、「被告人山下のアリバイ」(被告人山下は事件当日朝中田理髪店方に煙突掃除に行っていたので、現場に行くはずはないと主張したが、一審判決は右事実を認めず、アリバイの主張を排斥し、原判決もこれを維持しているので、この点もまた争点の一つである。)について、それぞれ詳しく説示したうえ、「一審判決の認定事実を是認した原判決は、少くとも二月一九日事件につき被告人らの自白その他の証拠の価値判断を誤った疑があり、その判断はにわかに首肯できないものである。そして本件公訴事実は、二月一九日事件を含む五つの列車妨害事件である(一、二審判決の認定を前提とするならば、右五つの列車妨害事件は、これに先立って昭和二六年九月一四日ごろ行われたいわゆる平和亭謀議による一貫した計画的犯行とされているところから、互に無関係な犯行とはいえないこととなる。)ところ、原判決の一部に右のような疑が存する以上、原判決には、判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認を疑うに足る事由があるに帰し、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。」というのである。

本件の差戻を受けた当審裁判所は、第二次控訴審として昭和四一年一二月五日以来二三回の公判審理を重ね同四二年一二月二二日結審した。その審理の経過をたどると、当審検察官はあらたに事実の取調を請求し、当初その申請は、各事件発生現場の検証のほか、主として二月一九日事件についての「貨車四輛の流出は自然流出でないこと」、「貨車(ト二五〇一一号)にはサイドブレーキがかかっていたこと」、「貨車四輛は二輛ずつに切りはなされていたこと」、「山下のアリバイは認められないこと」の各事項、その他被告人中垣好一、野崎邦夫、大沢清、中垣弥一、西村高見の各アリバイ主張に対する反証等の各事項にわたり、数十名の証人、数多くの証拠物、証拠書類に及んだ。これに対し弁護人は、差戻後の控訴審の性格を強調したうえ、証拠能力、関連性等からみて、検察官の証拠申請はすべて違法ないし不当であるか又は無意味であり必要がないものとして全部却下すべきであると主張した。裁判所は申請の一部を採用し、二月一九日事件に関し事件発生現場である小作駅構内及びその周辺の検証を日の出時刻をほぼ同じくする昭和四二年二月二〇日早朝を期して実施したのを始めとし、主として二月一九日事件の「貨車四輛が二輛ずつに切りはなされていたかどうか」及び「貨車四輛の流出が自然流出でないかどうか」の各点を中心とし、ことに「切りはなされたト二五〇一一号車とトム一〇五七号車との間の空気ホースは解放され、「トム」の空気ホースがホース塞ぎにつながれ、「ト」の空気ホースが垂れ下っていたため、福生駅構内で硫安の叺にひっかかり「ト」の制動主管は肘コックの根元から折損脱落していた」との検察官主張の新事実の立証をめぐって証拠調を進め、その間職権で、弁護人が上告審に提出した「責任運転事故原簿」の写の添付された書面を取調べたほか、貨車の構造等について検証を施行した。又採用決定のあった証拠調が一応済んだ段階で、裁判所から検察官に対し、「一審判決の事実認定の証拠となった被告人宇津木、同西村、同岩井、同池田、同大沢の自白ないしこれに準ずる供述(公判廷における被告人の供述及び相被告人に対する証言、裁判官の証人尋問調書、検察官に対する供述調書)の信用性ないし任意性を吟味検討する資料として、その供述の変遷過程を正確に知るため、起訴の前後を問わず、捜査の段階における前記被告人らの警察官、検察官又は裁判官に対する各供述調書で従前公判で取調べられていないもの全部につき、これが任意提出をするよう裁判所の立場で要望したい。」と告げたところ、検察官は、右要望を容れ、右被告人らに中垣弥一及び石田春雄を加えたうえ、同人らの警察官ないし検察官に対する供述調書、裁判官の証人尋問調書等合計一三〇余通を提出してこれが取調を請求した。これに対し弁護人は、「このような書類は、一審以来提出命令を申立ててきたところであるから、これが取調に異議はないが、自白の経過を明らかにするための証拠物として裁判所が職権で取調べることを求める、右提出にかかるものはその全部を尽していないから、捜査の経過を明らかにする意味で、捜査報告書等をも含めて検察当局が持つ一切の捜査記録を提出するよう裁判所から勧告されたい。」と述べた。裁判所は、検察官提出の右書類を、前記要望の趣旨にしたがって、かねて検察官から申請のあった被告人宇津木、同西村の警察官に対する自供状況を収めた録音テープとともに取調べた。その他検察官から右被告人らの自供を始めたときの状況及び前記被告人らの警察官に対する供述調書作成の状況を明らかにするため、当時捜査の指揮に当った保土田警部補及び斎藤刑事を証人として申出たほか、かなりの数の証拠の追加申請があり、裁判所は右警察官の証人尋問を行い、その他申請の証拠の一部の取調を実施した。なお、証拠調の最終に近い段階で、弁護人からも、「本件貨車ト二五〇一一号の一位制動主管肘コック取付部つけ根付近は、垂れ下った空気ホース連結器が叺にあたったり、ひっかかることによっては折損しないこと」及び「貨車の制動主管肘コック取付部つけ根付近は衝突の衝撃によって折損することがあり得ること」の二点の立証のため、実験に基づく鑑定及び証人一名の申請があった。裁判所は、右弁護人の申請を留保し、この点に関し職権で東大教授生産技術研究所研究員大井光四郎を証人として喚問した。最後に、裁判所は、「証拠についての申請の趣旨と申請にかかる証拠の内容及び立証事項との関係を検討し、従来記録にあらわれた一切の証拠、当審でこれまで行った証拠調の結果と最高裁が破棄判決に示した事実上の判断とにかんがみ、なお、事件発生以来一〇数年を経過して、今日当審が差戻後の控訴審として判断可能な必要最小限度において有意義であり相当と認められる証拠のみを取調べるという考え方に基づいて合議の結果、これ以上証拠調を重ねることなく、この段階で事実調を終了する」旨を宣し、なお、相当の数を残していた留保中の証拠申請の全部を却下し、検察官及び弁護人はそれぞれ弁論に入ったのである。

〔控訴の趣意〕

本件控訴の趣意は、弁護人及び被告人本人らが旧二審に提出した各控訴趣意書、同補充書のほか、控訴趣意を補充する意味で当審で援用した各上告趣意書、同補充書、上告審における「弁論要旨」及び「検察官の答弁書に対する反論」と題する各書面(ただし、旧二審判決に対する批判攻撃のみにかかわる趣旨の分を除く。)の記載及び当審における弁護人の控訴趣意を補充する意見陳述(当審第二回公判調書記載)のとおりで、これに対する検察官の答弁は、旧二審における控訴趣意に対する答弁(旧二審第五回公判調書記載)及び右答弁を補充する意味で当審で援用した上告審における検察官の答弁書、同補充書(ただし、検察官は控訴趣意に対応するもの及び上告審判決の拘束力に反しない部分のみ援用)の記載のとおりである。

〔当裁判所の判断〕

一、本件控訴の趣意は、要するに、主として、一審判決の有罪認定の証拠となった自白の任意性ならびに信用性を争い、被告人らが本件各事件と関係がなく、ことに二月一九日の貨車暴走事件は自然流出事故であるとし、一審判決の事実誤認を主張するものということができる。

二、ところで、本件では、一部被告人ら(宇津木、西村、池田、大沢のほか一審相被告人岩井金太郎)の自白(相被告人に対する関係で証言の形式をとっているものを含む。以下これに準ずる。)を除いては、他に被告人らの犯行を証明する証拠のないことは記録上明らかであるから、右自白の任意性ないし信用性の有無を究めることが最重要の問題であることはいうまでもない。そして、上告審の破棄判決(以下単に破棄判決と称する。)は、前述のように、まず二月一九日事件について、「本件貨車四輛が二輛ずつに切りはなされていたかどうか」等三つの争点について説示したうえ、一審判決の認定事実を是認した旧二審判決は被告人らの自白その他の証拠の価値判断を誤った疑があり、その判断はにわかに首肯できない、としているので、当審もまた、この点から検討を始めることにする。

三、元来二月一九日事件で暴走貨車四輛が二輛ずつに切りはなされていたかどうかを明らかにすることは、犯行方法についての被告人らの自白が客観的事実と一致するかどうかをたしかめるほか、事件が単なる自然流出事故に過ぎないかどうかをもきめる道をひらく点に意義があるばかりでなく、すでに破棄判決が示しているように、この問題を検討するについては、後部から二輛目の貨車と三輛目の貨車との間の空気ホースが連結されていたか又は解放されていたかを確定する要があり、その手がかりとなる資料として事件発生後間もないころ撮影されたと認められる写真――右後部から二輛目の貨車「ト」二五〇一一号車と三輛目の貨車「トム」一〇五七号車との間の連結部分の一部が写っている「昭和二七年二月一九日発生せる国鉄青梅線小作駅より福生駅間貨車暴走脱線事件の現場写真」第三図と称する写真(記録によれば、従来その撮影者は福生地区警察署勤務岸野正輝巡査と認められていたが、当審での証拠調の結果、右は当時鉄道公安職員として国鉄立川公安室に勤務していた平野三郎七が事故発生後間もないころ現場の福生駅に赴き撮影したものであることが判明するにいたった。しかし、このことは、その写真自体の証拠能力ないし証明力に影響を及ぼすとは考えられない。)――等が存在するので、事件当時から相当の長年月を経た今日でもなお、不確かな人の記憶に必ずしも頼ることなく、客観的に比較的確実な方法によって問題を思考することが可能なところに、とくに立証事項としての重要性が認められるのである。

四、ところが、右「現場写真」第三図には、問題の二輛の貨車の連結部分が一部しか写っていないため、それ自体から両貨車の空気ホースが解放されていたかどうかを直接確認することはできないので、一審ではこれを資料として鉄道技術研究所の研究員西岡直人に鑑定を命じた。そして、同人が作成提出した鑑定書によれば、本写真のみによって調査すると、二つの見解が生じてくる――見解Ⅰ「国鉄従業員または車輛取扱いの智識を有する者が作業した後の状況としてこの写真をみる場合は『両者の空気ホースは連結されており、肘コックは開通されている』と解釈できる。」と見解Ⅱ「見解Ⅰに残されている疑問点を主体とし、この車輛が衝突事故後の状況であるということ等を併せ考えると『ト二五〇一一号車の空気ホースは既に根元から欠損し脱落している。後続車の空気ホースはホース塞ぎにかけられている』という解釈も成り立つ。」――が、このうちのいずれかと判定するためには、さらに別の条件が存在しないかぎり極めて困難なことであるとし、見解Ⅰには、疑問点として、(a)「この角度より撮影された場合は、空気ホースが相互に連結されている場合も解放されている場合も、空気ホースの先端の一部は撮影されていなければならない。しかるに本写真にはこれが撮影されていない。これは空気ホースが相互ともに異常な状態にあるのではないかということが考えられる。」と(b)「写真でみる後続車「トム」の空気ホースの屈曲状態はホース塞ぎにかけられている状態に近い。」の二点を残し、また見解Ⅱに対し、「このように解釈するためには(この写真を撮影したときにはト二五〇一一号車の空気ホースが脱落し終っていた)という物的ないしはこれに匹敵する証拠がないかぎり断定できない。」との条件を付している。

五、しかし、一審判決は、西岡鑑定について、(一)「同鑑定人は鑑定に際し種々の角度から空気ホースの連結又は解放状態を観察しているが、高度については考慮を払わなかったことが認められるので、一審昭和三一年一一月一九日施行の検証調書添付写真第一九のように同添付図面(ハ)点から見るときはその高度のいかんにより解放されて垂れ下った空気ホースがあおり止めの背後にかくれて見えない場合のあることを看過している」、(二)「仮に後続車「トム」の肘コックが開通されているとするも、前車の肘コックを閉鎖すれば空気ホースを解放することは容易であり、又肘コックを開通したまま空気ホースを解放するときは後続二輛に非常制動がかかることは明らかであるけれども、その二輛の各緩め弁を引くときは容易に緩解することができる」として、西岡鑑定を排斥し、「ト」と「トム」との両車輛間の空気ホースが連結しているものとはとうてい断じがたいといい、「むしろ下り線ホームと三番線との間隔にかんがみ、犯人が貨車の南側から操作したものであり、前者の肘コックは前方に引いて閉鎖するもので容易なところからこれを閉鎖し、後続車の肘コックは向うへ押して閉鎖しなければならず比較的困難なところからこれを放置したまま空気ホースを解放し、後続車の空気ホースは前方に引いて塞ぎ鎖にかけるもので容易であるから、これを塞ぎ鎖にかけ、前者の空気ホースは向うへ押して塞ぎ鎖にかけるもので比較的困難なのでこれを放置し、次いで後続二輛の各緩め弁を引いて緩解したものと断ずるの外ない」と判示し、被告人らが変則的な連結切りはなし方法をとったことを認定している。

六、これに対し、破棄判決は、右一審判決の認定をきわめて妥当であるとして是認した旧二審判決につき、(一)「仮に西岡鑑定が、空気ホースがあおり止めの背後にかくれる場合のあることを看過しているとしても、直ちに鑑定書の見解Ⅰに影響をもつものとは思われない。」(二)「被告人らが一審判決認定のような変則的な連結切りはなし方法をとったとの直接の証拠は、記録上少しも存在しない。また鑑定人西岡直人の一審証言、証人藤原一雄の原審証言、同湯山武男の原審証言によると、連結した貨車を切りはなす際、双方の貨車の肘コックを閉めれば比較的容易に空気ホースを切ることができるが、貨車の肘コックを閉めないままで空気ホースを切ることは、大変な力が必要であり、ホース中の空気の圧力によってホースがはね返り怪我をするおそれがあるから、肘コックを閉めずにホースを切ることはなく、もし肘コックを閉めないままで空気ホースを切れば非常に大きい音がするというのであり、また、一方の貨車の肘コックを閉め、他の一方の貨車の肘コックを開いたまま空気ホースを切る場合も同様で、ホースの先の金具が上下左右に振動して危険であるというのであるから、原判決のいうような貨車取扱の知識を有する被告人山下の指揮する犯行としては、まことに慎重を欠く不自然な行動と考えられるし、そのような危険を冒さなければならないほど、「トム」及び「ト」の両貨車双方の肘コックを閉める作業が困難であるとは思われない。」とし、「したがって、被告人らが一審判決の認定したような変則的な貨車の切りはなし方をしたかどうかも疑わしいところであるばかりでなく、原判決が「トム」の肘コックは開通されている、と認定した一審判決を是認する以上、経験則からいって、西岡鑑定の見解Ⅰは相当の合理性があるのに、同判決がなお、明確な証拠によらず変則的切りはなし方法をとったものと認定した一審判決を維持しているのは事実誤認の疑がある。」というのである。

七、そもそも、一審判決が、西岡鑑定を採用しない理由の一つとして、「現場写真」第三図の「ト」号車の空気ホースはあおり止めの背後にかくれて見えない場合のあることを看過しているとしたのは、明らかに誤っている。けだし、同写真には、「ト」号車の空気ホースは見られないが、その塞ぎ鎖はあおり止めから相当の間隔をおいて左下に下っているのがはっきり見えるのであり、このような場合、空気ホースが垂れ下っているとすれば、ホースと鎖との取付位置の相互関係(当審取調の中山外一名作成の調査報告書その2添付写真2参照)上、必ず鎖と同時にホースもまた見えなければならないはずだからである。一審判決は、その判断の根拠として、一審昭和三一年一一月一九日実施の検証調書添付写真第一九を援用しているが、同写真は添付図面の角度(ハ)点からある高度(地上何メートルか表示がない。)に立って見た一つの場合のもの(添付図面の他の角度(イ)点、(ロ)点から見たものについては、いろいろ異る高度から撮影しその高度の距離を表示した写真があるが、(ハ)点から見たもののみは、一審判決には「高度のいかんにより」と判示しているにかかわらずなぜか一つの高度の場合しか添付されていない。)であって、空気ホースはその車のあおり止めの背後にかくれて見えないようであるけれども(この点写真がやや不鮮明である。)、この場合ホース塞ぎ鎖は、あおり止めにごく接近して垂れ下っているのである。そして、前述の検証調書添付の他の諸写真によれば、たとえば「現場写真」第三図と似てホース塞ぎ鎖があおり止めから相当の間隔をおいて見られる添付図面の角度(ロ)点から三つの異る高度に立って、空気ホースが解放されて垂れ下っている場合を撮影しているものを見ると、明瞭にホースはつねに鎖の下部と交差して見え、高度の相違による変化は見られない。西岡鑑定人も一審で、「現場写真」第三図について、撮影の高さの関係から空気ホースがあおり止めの背後にかくれるとは考えられない、と証言しているが、正にそのとおりで、一般にいって、そのようにかくれて見えない場合があるとすれば、むしろ、それは撮影の角度によるもので、そのときは、もちろんホース塞ぎ鎖もかくれるか又はそれに近い状態にならなければならないはずである。

八、そこで、右の点について従来一審判決とほぼ同じ見解に立ってきた検察官は(記録によれば、一審論告では、「「ト」号車の空気ホースは解放されてホース塞ぎ鎖にかけず連結器の隙間又は連結器横の踏段の隅にさしはさむ等の簡略な操作方法がとられたか又はあおり止めに遮られて見えない場合があるから、ホース塞ぎ鎖につながっていないからといって直ちにホースが解放されていないとはいえない。」といい、旧二審及び上告審の検察官も右見解を維持した。なお、右前段主張のように仮にホースを連結器の隙間又は連結器横の踏段の隅にさしはさんだとしても、本件のような貨車追突の際の激動に堪えてそのまま落ちないでいようとはとうてい考えられないことは、一審の西岡証言によっても認められるところであり、裁判所は一審、旧二審とも検察官のそのような見解は採用していない。)、事件が差戻になった当審では、前述のように全く従来の主張を改め、新らしく、問題の空気ホースは、同貨車の一位制動主管の肘コックの根元から折損し脱落していたもので、それは、本件貨車が暴走して福生駅構内の貨物線に進入した際、これを止めるため、駅員らが貨物ホームに積んであった硫安叺七個を暴走車の進行前面の線路上に置いたので、解放されて垂れ下っていた右ホースがその先端部を硫安叺にひっかけた(後に、ホースが叺に「あたった」か又は「ひっかかった」といい直す)結果起ったのである、と主張し、この点に関し検察官が申請した証人その他多数の証拠の取調が行われたことは、前述のとおりである(「従来「ト」号車につき「制動主管折損」又は「一位制動主管破損<取替>」と記載された鹿志村庚二作成の被害届や西岡直人作成の鑑定書という重要な証拠は存在していたが、一審の西岡証人及び旧二審の湯山証人がこの点につき訴訟関係人を誤解させるような証言をしたため、その意味が分らず、結局「ト」号車の空気ホース欠損を認めるに足る証拠なしとされたのである」と検察官は弁明する。)。そして、検察官は、右証拠調の結果、「ト」号車の空気ホースの欠損脱落の事実が証明されたので、「西岡鑑定の見解Ⅱはさしあたり採用のかぎりではない。」とした破棄判決の判断の基礎は変更され、他の疑問点に対する解明(後述)と合せて結局同見解Ⅰの根拠もすべて排除されることになったというのである。

九、さて、当審での証拠調の結果によれば、なるほど検察官所論のとおり、一審当時取調べられた鹿志村庚二作成の被害届及びこれに基く同人の一審証言中に、すでに「ト」号車の故障個所として単に「制動主管折損」があったとの事実があらわれていたが、右被害届作成の根拠になった事件当時の客貨車故障報告書の写が始めて当審に提出され、右事実が再確認されたこと、関係者の証言によれば、一般に制動主管の折損というと、肘コックの付根部で制動主管にネジ切りがしてあるところが肉が薄く材料的にも弱いので、その部分が折れる機会の多いこと、又事件当時の「ト」号車は現在ト五〇一一号車として残存しその制動主管の一位側の肘コック付根部付近に切継修繕の跡が見られることが関係者の証言により判明したことなどからして、本件「ト」号車の「トム」号車に面する制動主管の肘コック付根部に折損があった事実は、一応これを疑う余地はないように見える。しかし、一般に制動主管の折損というときは、肘コック、空気ホース(先端に連結用の金具がついている)の重さ等からみて、ことに車の進行中に原因を生じたような場合には車の動揺につれて、それらが折れて下に落ちることが多いであろうことは推測理解できるとしても、折れて完全に落ちきれずにいるのも含めて折損と呼ぶ場合のあることや脱落までいかなくとも損傷すれば切継修繕をすることは、所論引用の証言中にもうかがわれることであるから、以上の証拠調の結果折損について判明したところ(「折損」という記載があったとか、切継修繕の跡があったとか)からだけでは、直ちに肘コック、空気ホースが脱落したとまでは、証拠上必ずしも即断できない。又それだけでは、「ト」号車の空気ホースが解放された状態で折損があったかどうかも判らないことはもちろんである。けだし、「ト」号車の空気ホースと「トム」号車の空気ホースとが連結されたままで、「ト」号車の制動主管の一位側に折損を生ずることもあり得るからである。そこで、検察官は、さらに、右折損の原因として一般に想定される五つの場合を検討した結果、本件の具体的状況の下では、前述のように、貨車の暴走を止めるため線路上に置かれた硫安叺が、解放されて垂れ下っていた「ト」号車の空気ホースの先端の金具(キャプラーという)にあたったか又はひっかかったとしか考えられない(「ト」号車と「トム」号車との双方の空気ホースが連結していた場合は、その最下部と地上との間隔及び叺の厚さ等の関係で空気ホースが叺にふれる可能性は絶対にない)と主張し、折損の事実から逆に問題の空気ホースが解放されて垂れ下っていたこと、そしてそれが脱落したことを証明できるとするのである。たしかに、当時の福生駅長の運転事故報告書によれば、「当日暴走車を止めるため、その進行前面の線路上に駅員が硫安叺二個ずつを左右のレール上に並べ、次に三個をホームからレール上に投げこんだところ、暴走車は二個を轢断し制輪子にひっかけたまま停留車に激突、他の五個ははねとばされ、レール面に散布した」とあるので、検察官所論のとおり、その叺のうちのいずれかが左右のレールの間に残り、これが障害物となり、もし空気ホースが解放されて垂れ下っていたとすれば、その先端の線路上からの高さや硫安叺の大きさ等からみて、あるいは右空気ホースの先端が前述の叺にあたったかも知れないと推測することは必ずしも不可能ではない(ただし、当審が昭和四二年九月一六日実施した貨車の検証で裁判所がたしかめたところによれば、空気ホースが解放されて垂れ下ったときの状況、ことにその先端の金具(キャプラー)の形、構造――連結のための凹みや爪があるが、下向きに作られている――等を仔細に見分すると、進行中これが前述の叺にふれたとしても、ひっかかるとは、常識上およそ考えられない。)。しかし、それはあくまで可能性にとどまる(空気ホースがあたるかも知れないような位置と状況下にうまく硫安叺がおかれたかどうか、これを確定する証拠はないのである。)。いわんや、仮にあたったとしても、果してそのために所論のいう制動主管の折損が必ず生じると断定できるであろうか。当審裁判所が前述の検証に際し直接手に触れ現認した空気ホースの弾力の具合とこれがはね上げられた場合の振動の状況を参考にし、材料力学を専攻する東大教授大井光四郎の当審での証言に徴すれば、たやすくその蓋然性を認めることはできない(当審で取り調べた貨車関係者の証言中には、右のような場合折れると思うと述べたものがあるが、単なる推測で適確な根拠が示されていないし、又進行中の貨車から垂れ下っていた空気ホースがレールにはさまったり、踏切のどこかにあたったりして折れた例を聞いたことがあるという証言もあるが、必ずしも本件にあてはめて適切な事例とはいえず、そもそもこのような場合の結果はいろいろな条件に支配されるのに、その条件が同じかどうか明らかでない事例をかれこれ比較することは、十分な意義をもたない。)。もちろん、前述したとおり、「ト」号車の一位制動主管折損の事実は現に認められるのであるから、その折損部分に何らかの力が働いたことは否定できない。検察官の主張は、すなわち、その力の原因が他には考えられないということを前提とするものであるが、弁護人は、この点に関し、それは、本件貨車が福生駅で停留車に衝突停止した際の衝撃と制動主管自体の前進を続けようとする慣性により生じたものと考えられると主張するのである(すなわち、この主張によれば「ト」号車と「トム」号車の双方の空気ホースが連結されたままの状態でも前述の制動主管の折損が生じ得るわけである。)。そこで、また前述の大井教授の証言によれば、「そのような場合、折れるとも折れないとも、実験しないでは何ともいえない」ということであったが、理論的には制動主管折損の可能性のあることを示唆している(実験するといっても当時と全く同じ条件を想定することは今日不可能に近く、実験の結果を本件の具体的場合にあてはめて正確な結論を出すことのむずかしいことは、同証言からもうかがうことができる。)ことを考えると、本件制動主管折損の原因は絶対に他にあり得ないということを前提とし、それは解放されて垂れ下っていた空気ホースが硫安叺にあたるかひっかかったことによったものであると推認する検察官の主張は、必ずしも採用しがたいといわなければならない(西岡証人は、一審で、本件の事故報告書を見ると中央梁という大きな部分が曲るほどの衝撃であるから、空気ホースは、直接衝撃を加えなくとも、貨車の激突のため落ちることがあると思うと述べたが、当審では、現在の考は本件ぐらいの衝撃ではそう簡単に落ちないと思うと訂正し、ただ衝撃のいかんによっては落ちることが全然ないとは断言できないと補述している。そして落ちないと思うという証言は他の貨車関係者にも見られるのであるが、そのいずれも単なる推測的意見に過ぎず、ほとんど根拠を示していない。要するにこの場合人の意見はさまざまであるにしても、いずれとも一概に決定し得ない問題であり、少くとも落ちる可能性もあるのではないかとの疑は残るのである。)。

一〇、さらにまた検察官は、「ト」号車の空気ホースの問題を度外視しても、「現場写真」第三図の「トム」号車の空気ホースの形状からして、本件貨車は二輛ずつに切りはなされていたと認められると主張する。しかし、西岡鑑定は、もともと「写真で見る「トム」の空気ホースの屈曲状態は、ホース塞ぎにかけられている状態に近い。」と疑問を残しながら、なお、反対の見解Ⅰの解釈が可能であることを述べているし、所論指摘の中山和春外一名の調査報告書も、「連結されているというよりも、空気ホースを解放し空気ホース塞ぎにかけられているという方が妥当と考えられる。」としてはいるけれども、写真に撮影されている空気ホースの位置は、現在一般に見られるホース塞ぎに連結している場合の状況に近いと述べているだけで、それと同じ状況にあるとはいっていない。右中山報告書添付写真を参照しても、「現場写真」第三図の「トム」号車の空気ホースの曲り工合は、ホース塞ぎにかけられている普通の場合と比較し、上に上り過ぎていることは明らかである。そして、同報告書及び中山証言によれば、「現場写真」の自連胴受は現行の胴受とは異った構造で、大正年間に採用され、現在廃止されている「エプロン」型と称するもののように見受けられ、「エプロン」型の場合、空気ホース塞ぎ鎖の取付位置は現在の型のものより二センチメートル高いというのであり、検察官は、これを引用し、「現場写真」の「トム」の空気ホースがホース塞ぎにつながれているとして、その曲り工合が上に上っているのは当然である(西岡鑑定人はこのことを知らなかったことを認めている。)と述べるのであるが、当審が昭和四二年九月一六日実施した検証の結果に徴すれば、貨車の空気ホース塞ぎ鎖の取付位置を「エプロン」型の場合と同じようにして、これに空気ホースをつなぎ、そのときの屈曲状態を、現在の型の場合のそれと比較しても、ほとんど両者の間に相違がみられなかった(鎖につながるホースの先端部分はつり上げられても、ホースの弾力性や重さ等の関係によるものであろうが、肘コックに接続する方の部分にまでさして影響を及ぼさないものと考えられる。)のであるから、「現場写真」の「トム」号車の空気ホースの曲り工合が一般より上に上り過ぎているのは、「エプロン」型胴受のためであるという検察官の主張は成り立たない(西岡証人も、当審で、「トム」号車が「エプロン」型の胴受であったことは知らなかったが、「エプロン」型であったとしても、さきの鑑定の結果を変更する要はない、と述べている。)。したがって、右「現場写真」そのものから直ちに「トム」号車の空気ホースがホース塞ぎにかけられている、換言すれば、本件貨車は二輛ずつに切りはなされていた、と断定することは、前述の中山報告その他関係者の証言中そのように見える旨述べたものがあるにしても、妥当でない。むしろ、「現場写真」第三図は、西岡鑑定の見解Ⅰの疑問点で述べられているように、空気ホースが相互ともに異常の状態にあることを示していると考えるのが相当である。そして、一審ならびに当審での西岡証言によれば、本件のような貨車の追突事故の場合、「ト」号車の空気ホースと「トム」号車の空気ホースとが連結されていたとして、右追突の際の衝撃により、連結されたままの空気ホースがふりまわされて何かに引っかかり「現場写真」第三図のような状況を呈することが絶対に起り得ないとは断言できないというのであり、この点反対の証言はあるにせよ、西岡証人も、かつて貨車に関する実務担当の経歴があり、貨車の構造をよく知悉し、本件では前述の鑑定をも担当し関係事項につき慎重に検討を重ねていた立場にあるのであるから、当審で新らしく判明した制動主管折損の事実を考慮に加えても、なお、西岡証言のいうような事態の可能性を考えないわけにはいかない(検察官は、空気ホースが車体の一部とかホース塞ぎ鎖に巻きついているという状況があれば、そのような異常な状況は必ず係官の記憶に残らなければならない。本件の故障調査を担当した岡部証人らは、この点につき当審で、空気ホースが特に異常な状態にあった印象はないと証言しているというけれども、同証人は他方空気ホースの状況については現在何も記憶していないと述べているばかりでなく、現に貨車追突という異常な大事件があり、同証人もこれを目のあたりに見ている以上、追突から生ずる大きな衝撃は当然連想されるところであるから、所論のような状況があったとして、それだけが特別に異常なものとして印象に残るとは必ずしも考えられない。)。何事にもあれ、いやしくも疑が残る以上、被告人らの不利益に事を断すべきではない。

一一、次に、検察官は、破棄判決が、被告人らが一審判決の認定したような変則的な貨車切りはなし方をしたかどうかも疑わしいとした点につき、次のように主張する。すなわち、「本件自白によれば、山下がホースを切ったとあるだけで、証拠上は変則的切りはなしをしたかどうかは不明であるが、国鉄の日常の作業においても内規どおり行われているとはかぎらず、まして本件が作業を急ぎ犯行中のものであることを考えれば、内規どおり作業をしなければ切りはなしができないとか、作業が危険であるとか、時間がかかるというのであればとにかく、経験則上特段の必要性のないかぎり、内規どおりの作業をしたとは考えられない。空気ホースをホース塞ぎにつなぐことは、ホースを解放した後単にホースを保護する目的でする付加作業に過ぎないから、単に二輛の車を切りはなすという犯罪敢行のための目的からは不必要なことであり、ときに習慣的に空気ホースをホース塞ぎにつなぐことはあり得るが、直接の証拠がないかぎり、忠実に内規どおりにしたと認めねばならぬ筋合のものでない。又当審における昭和四二年六月五日実施の貨車検証の際、立会人の客貨車区助役劔持高雄が実地に肘コックを開いて空気ホースを切りその状況を確認したところによれば、日常貨車の連結切りはなしをしている連結手にとっては、大した力もいらず、危険でもなく、簡単に解放でき、切ったときの音も大して大きくなかった。本件でホースを切ったとされている山下は元国鉄で連結手をしていたのであるから、一審判決認定どおり手前にある「ト」の肘コックを閉め、連結器の向う側にある「トム」の肘コックは開いたまま空気ホースを解放することは可能であり、そのようなことをしたからといって、破棄判決指摘のような『まことに慎重を欠く不自然な行動』とは考えられないし、『危険を冒し』たものでもない。」と。しかし、検察官も認めるとおり、被告人らが一審判決認定のような変則的な連結切りはなし方法をとったとの直接の証拠は、記録上少しも存在しない(検察官は、「直接の証拠がないかぎり忠実に内規どおりにしたと認めねばならぬ筋合のものでない」といい、解放した「トム」の空気ホースをホース塞ぎにかけ、「ト」の空気ホースをそのままに放置したとする一審判決の認定を維持するけれども、たとえそのような変則的な切りはなし方法をとったかも知れないという可能性は否定できないとしても、それだけで直接の証拠がないのに、単なる推測により、被告人らの不利益に事実を認定してよいという法理はない。)。そればかりでなく、検察官指摘の検証によって当裁判所が確認したことは、熟練者が、細心の注意をもって行えば、肘コックを開いたままでも、とくに危険を感ぜず、別して困難でもなく、空気ホースを切ることができるということであって、それは必ずしも無雑作に気易くできるというものではなかった。検察官も認めるとおり、肘コックを開いたままの場合とこれを閉めている場合とでは、空気ホースの解放作業に難易の差があり、肘コックを開いて空気ホースを切ればホースの先の金具が上下左右に振動して一般に危険のおそれがあることは性質上当然で、このような作業を日常職業としている者でも、肘コックを閉めて切る方がより容易に危な気なく切ることができることはいうまでもない。さればこそ、この点に関する従来の西岡証言ないし湯山証言に述べられているように、国鉄の内規としては、肘コックを閉めて空気ホースを切るように職員に指示しており、職員もまた一般に通常そのように作業しているものと認められるのである。したがって、特別の必要のないかぎり、職員といえども内規どおりの作業をするのが普通であり、しかも本件では、仮に犯罪敢行のため作業を急ぐ要があったとしても、空気ホースの解放作業を行うのに、より容易でかつ安全な方法を犠牲にしなければならないほど、「トム」の肘コックを閉める作業が格別困難であるとか又はそれをするいとまもなかったとは状況上認められないので、元国鉄の職員であった山下が「トム」の肘コックを開けたまま連結した空気ホースを解放したとすれば、それはやはり、少くとも「不自然な行動」たることは免れないと考えられるのである。

一二、以上述べたように、本件貨車が二輛ずつに切りはなされたかどうかについて、破棄判決が示した疑問を解消するに足りる証拠は結局あらわれず(破棄判決は、右争点に関連して、さらに被告人らがこれをしたと認定するためには、果してそれだけのことをする作業時間があったかどうかという点からも検討を加える必要があるが、一審判決の認定を維持した旧二審判決がこの作業時間を認定するについて資料とした昭和二八年五月一四日付保土田、和田両警部補作成の「国鉄青梅線小作駅構内における貨車流し実験状況報告」と題する書面―被告人らの自白にしたがってその代役を警察官がつとめて実験したもの―によっては、これで直ちに時間的に本件犯行が可能であったと認定することにも疑問があるとし、又野村義夫作成の「貨車の速度調査書」と題する書面及び同人の一審証言によれば、右貨車流し実験の際の押し方では後続二輛が前二輛に追いつかないことが明らかであり、よほどうまく加減して押し出さないかぎり、貨車が二輛ずつ別々に流れ続ける可能性がある等の疑問を示しているのであり、当審で検察官は、これらの点に関しても証拠の取調を申請したが、裁判所はこれを採用しなかった。けだし、これらの作業時間なり、押し出しによる貨車の進み方を検討するについて前提条件となるべき被告人らの行動は、自白によっても、必ずしも右検討にふさわしいほど十分に確定しがたいばかりでなく、これらの点について結論を出すためさらに時間と手数を費さなくとも、すでにこれまで説明を重ねてきたところによって、「本件貨車が二輛ずつに切りはなされていたかどうか」という争点についての判断は可能となったからである。)、この点に関する破棄判決の判断は、当審もまたこれを維持するものである。

なお、弁護人が上告審に提出し、当審で取調べたいわゆる「責任運転事故原簿」写ならびに右原簿の記載を担当した大嶽藤一郎の当審証言によれば、本件の貨車暴走事件は、勾配線のある駅構内での貨車入換作業中の機関士の制動の取扱上の過失による残留車の自然流出事故であるとして、当時当局において一応責任者に対する懲戒処分を内定したが、決裁前の段階で政令の発布により懲戒免除になったので、未発令に終ったことが認められる。これに対し、検察官は、本件貨車は当時機関車による貫通制動によって停車し残留四貨車には十分制動がかかっていたことは、一審の証人鈴木頼之、同藤原一雄、同小倉孝義の各証言によって明らかであるから、自然流出の可能性は全然ないといい、前述の「責任運転事故原簿」の記載に関しては、大嶽は、当時同人が東京鉄道管理局保安主幹付主席として事故原因の直接調査に当ったとき、外部の者による人為事故ということは全然考慮せず、当初から入換作業従業者の手落による事故と断定し、それを前提として調査したことを証言しており、機関士、機関助士、車掌、駅員の供述によれば前述のように流出した四輛の貨車の制動が緩解していたとは認め得ない状態であったにかかわらず、結論から推論して機関士の制動措置の欠陥等を推定したことが明らかであって、調査自体不完全なものであるから、右事故原簿の記載が本件を過失事故と解する根拠とはなり得ないものであると主張する。しかし、大嶽証言によれば、同人は事故発生と同時に即日係員を現場に直行させて調査に当らせたほか二、三日後自身小作駅に赴き再度機関士、機関助士、車掌、駅員等から直接事情を聴取するなどして事故原因を調査した結果、制動措置に誤りはなかったと関係者は弁明していたが、現に貨車が流出している以上機関士の制動の扱いに過失があったに違いないと推測した(人為事故ということは全然念頭になかったし、そういうことを考慮にいれていたならばこの程度の調査ではすまなかったはずである。入換中の貨車の自然流出事故は一般にちょいちょいある。)として、推測できる原因を具体的に説明しているのであるから、大嶽の調査の結果による前述の「責任運転事故原簿」の記載から直ちに本件を鉄道職員の過失による自然流出事故と断定する証拠となしがたいことはもちろんであるとしても、前述のようにかりそめにも右調査に基きともかく関係者に対する懲戒処分まで内定した以上、もとより無責任な調査とはいいがたく、少くとも本件が鉄道側関係者の過失による事故でないかと疑うべき余地のあることを物語る資料にはなるということができるであろうし、他方右調査責任者が当時全く人為事故の可能性について思い及ばなかったという事実は、その調査に関するかぎり人為事故を疑わしめるような痕跡が見当らず、又その身辺にそのような情報も流れていなかったことを意味するものともいえよう。(前述のように、当裁判所は、二月一九日事件に関し、事件発生現場である小作駅構内及びその周辺の実地検証を事件当日とほぼ日の出時刻を同じくする二月二〇日早朝を期して実施したが、そのとき見分した駅構内及びその周辺の状況及び明るさの程度(もちろん事件当時と天気状況その他の相違を考慮に入れて)、列車の運行、鉄道職員の執務状況等の点からしても、これを人為事故と見ることについては、素朴的な観点から、いささかの疑問なしとはしないのである。)。

検察官は、さらに、入換作業中本件残留四貨車に制動がかかっていなくても、自然流出は困難であると主張し、当審で取調べられた丸山深雪外一名作成の鑑定書を引用し、丸山深雪及び西岡直人が昭和四一年一〇月二五日小作駅三番線とほぼ同一条件の国鉄水郡線磐城棚倉駆構内で、本件残留四貨車とほぼ同一の重量の貨車四輛に機関車による「ちょい」をくれて二回実験をしたところ、第一回は三、九〇メートル、第二回は七、三六メートル転動したが、いずれもすぐ停車してしまったといい、又、丸山証言にあるとおり、車の自然流出の可能性をなくし、あるいは少なくするため、国鉄の建設規程によると駅構内の勾配は千分の三、五以内に作ることになっているが、小作駅構内の勾配は千分の三、三であって建設規程のとおりであるから貨車の自然流出を防止するに足る勾配であるというのである。しかし、西岡直人の原審ならびに当審証言によれば、「貨車が走ってきて停車直後ならば、温度が上って車軸に油幕ができているから転がり易い、本件現場の小作駅構内で昭和三一年一〇月一三日(一審当時)同じような実験をしたが、そのときは貨車が自然流出して停止しなかった、そのときの実験では軸箱の温度を上げて列車が走ってきた直後の状態にして行ったのであるが、今度の棚倉の実験ではそのような条件が欠けていた、このことは結果に明らかに影響を及ぼすものである」というのであるから、検察官の右主張もたやすく採用しがたい。

一三、これまで論議された争点のほか、破棄判決は、さらに(一)「本件貨車にサイドブレーキがかかっていたかどうか」、(二)「被告人山下のアリバイ」、の二点について判断を示している。すなわち、

(一)について、一審判決の認定を維持した旧二審判決の「小岩井又は藤原(いずれも本件貨車四輛を残留する際、その場で残留車と他の九輛との間の連結器の解放作業に当った小作駅員)のいずれかによって右後部より二輌目の貨車のサイドブレーキがかけられていたことは、これを否定するに足る資料は発見せられない故に、前記供述調書(小岩井の昭和二八年四月一四日付検察官調書)の記載により、右両名のいずれかによって現実にサイドブレーキがかけられていたものと認めるにかたくないところである。」旨の判示に対し、破棄判決は、「一部被告人らの自白を除いては、右サイドブレーキがかけられていた事実を直接明確に認め得る証拠がなく、小岩井、藤原の供述によっても、サイドブレーキがかかっていたことは的確には認められず、結局残留貨車の後部より二輌目の貨車にサイドブレーキがかかっていて被告人宇津木、岩井の両名がこれを外したとの事実は疑をいれる余地があり、原判決が前記のように判示して、一審判決の認定を是認しているのは、たやすく首肯することができない。」とし、

(二)について、一審判決の認定を維持した旧二審判決が、中田清一の一、二審証言から、被告人山下が同人方(中田理髪店)に雪の降った同店の休みの日(火曜日)に煙突掃除に来たこと、そのとき榎本寿助は自転車のチエンが切れたといって被告人山下の掃除が終ったころ来たことなどを認め、榎本寿助の一、二審証言中、山下と二人で中田方に仕事に行ったのは昭和二六年一二月五、六日ごろから同二七年四、五月ごろまでのことであるという点は一応措信できるとしたうえ、昭和二七年二月一九日に山下と二人で中田方に仕事に行ったと述べている点については、「横浜測候所長作成の気象状況回答書の記載に徴し、二月二六日の火曜日にも降雪があり、午前八時ごろの積雪量としては二月一九日の朝と大差ないものというべく、二月二六日もまた雪の朝ということができるから、この二六日が山下と榎本とが二人で中田方に仕事に行き榎本がチエンを切った日に該当するとも考えられ、関係人としてはこの雪の朝のことについて記憶が混同したのではないかと思われるので、榎本の右日時についての供述はにわかに措信できない」とした(一審判決は、証人中田トヨ子の供述を引用し、雪の降った二月中の火曜日の朝、山下が中田方に煙突掃除にきたのは二八年二月のようにも思われる旨判示した。)のに対し、破棄判決は、「問題の山下と榎本が二人で中田方に煙突掃除に行ったという雪の降った火曜日は証拠上二月一九日と二月二六日の両日にしぼられると考えてよい、ただ原判決引用の横浜測候所長作成の気象状況回答書によれば、二月一九日はほとんど一日中雪が降り続いていたのに対し、二月二六日は夜中の二時四八分に雪が降り止んで、あとはほとんど一日中雪が降っていなかったことが認められ(この事実は原判決も認めている)、この点が右両日の大きな違いであるということができ、証人中田清一の一、二審証言、中田トヨ子の一審証言、榎本寿助の一、二審証言を検討すると、同人らはいずれも山下と榎本が二人で煙突掃除に来た問題の日は、「雪が降っていた」とか「降り続いていた」とかなど述べているのであって、同人が右両日の記憶を混同しているとはにわかに断ずることができず、原判決がたまたま次週二月二六日の火曜日もまた雪の朝であるということから、たやすく関係人が記憶を混同したものとして、この二六日が問題の火曜日に該当すると考えられるとしたこともにわかに肯認することができない。」とした。

検察官は、右(一)の点について、当審で、証人として丸橋菊一、栗原定雄、小岩井達雄、藤原一雄、塚田善秋を、又残留車にサイドブレーキをかけたことを中心に入換作業の実態を立証するため塚田善秋作成の昭和四一年九月二二日付実況見分調書一通の取調を各申請したが、裁判所はこれを却下した。けだし、丸橋、栗原についての申請の趣旨は「当時国鉄の指導方針として小作駅のように勾配のあるところでは必ずサイドブレーキをかけることになっており、駅員は習慣的にサイドブレーキをかけていた。当時の小作駅員栗原定雄、同丸橋菊一も必ず実行していた。」ことの立証にあると認められるが、このことは、本件において小岩井又は藤原が現実にサイドブレーキをかけたかどうかを判断するのに直接影響がないばかりでなく、当時一般にサイドブレーキをかけることになっていたかどうかの点については、すでに一審及び旧二審における小岩井及び藤原の両名に対する証人尋問で取調べられているし、又小岩井、藤原両名の証人申請については、直接争点について一審及び旧二審ですでに十分な取調べを受けているうえ、なお、小岩井においては、申請の理由として、「同人の検察官調書によれば『藤原や私がそのブレーキをかけたかどうかはっきり思い出せません。………』と述べ、一審や旧二審の法廷では『サイドブレーキは藤原がかけたかも知れないが自分はかけない』とか『記憶ない』と証言しているが、今回藤原と小岩井とが立会ったうえ青梅線拝島駅で当日と同じ状況下で貨物列車の駅到着、四輛切はなしの作業を実験したところ、小岩井が「ト」のサイドブレーキをかけてから四輛目の肘コックをしめ、藤原は下りホーム側で五輌目の肘コックをしめてから連結器の下をくぐって反対側に出てエヤーホースを切った実験が、もっとも時間的にも二人の行動が一致し、立会人である小岩井もそれによって記憶をよび起し、同人が事故当日サイドブレーキをかけたと思うと述べている」ということが挙げられているようであるけれども、前に「自分はかけない」とか「記憶がない」とか述べた証人が十余年の長年月を経た今日実験の結果(証人の職掌がら、とくにちがった記憶の喚起に役立つようなめあたらしい実験とも思われない。)前と異るあらたな記憶をよび起したといっても、経験則に照らし再調べをする価値のある証拠とはいえないからである。

又検察官は同(二)の点について、当審で、「従来の関係証人の証言内容及びそれを基とした各判決の判旨はいずれも誤りであって、事実は中田方では昭和二七年の冬までは専門の煙突掃除屋を頼まず、中田自身が煙突掃除をし、同人方従業員小林美枝子(旧姓大橋)らが、時々これを手伝っており、昭和二七年冬ごろか昭和二八年初春になって始めて専門の煙突掃除屋に掃除を依頼するようになったのである。また煙突掃除をする日も毎週火曜日と決っておらず、営業をしている日でも午後の客のいないときなどに掃除をしていた。同人方従業員福田阿佐子(旧姓西川)もこれを現認している。榎本証人は、昭和二七年二月一九日に煙突を仕入に行ったかどうかを吉沢一郎に尋ねると、吉沢は日記帳を調べて二月一九日は雪が降ったというので、雪が降っている最中煙突掃除をしたのは中田理髪店ぐらいのものであったから思い出した。当日は雪が降っていて中田方へ行く途中自転車のチエンが切れて新車を降した。旧車は大滝の物で、新車は昭和二六年の暮か昭和二七年の一月ごろ三谷自転車屋で月賦で自分が買った物である。中田方に行った後その日その新車で反町診療所という食糧営団で働いている人が安くかかれるところへ煙突掃除に行ったと証言している。しかし、榎本は前述のとおり昭和二七年二月一九日には中田方へ煙突掃除に行っていないだけでなく、反町診療所にも行っていないのである。榎本は、吉沢一郎に、被告人が事件を起す前の日に吉沢方の仕事をし、事件当日も被告人と一緒に仕事をした憶えがあるので、それが帳簿に記載してあれば被告人と働いた先が思い出せるからといって帳簿を調べてもらい、吉沢の帳簿には榎本らがその日吉沢方の仕事をした旨の記載はなく、たまたま二月一九日が雪である旨記載されていたので吉沢がその由を告げたに過ぎない。また榎本のいう反町診療所すなわち神糧健康保険組合では、当時榎本に煙突掃除をしてもらっていたが、昭和二七年二月の煙突掃除は二日、一四日、二一日の三回で、二月一九日ではない。三谷自転車屋では、昭和二六年暮または昭和二七年一月に榎本に自転車の新車を売ったことはなく、そのころ榎本の義父大滝徳治郎に中古自転車を売ったに過ぎず、代金は月賦でなく現金払いである。したがって、前述の榎本の証言はその内容が虚偽である。」という理由により、証人として、小林美枝子、神田阿佐子、斉藤義夫(神糧健康保険組合事務長)、三谷武三を始め、榎本名義昭和二七年二月二一日付領収書一通(本領収書は植木弁護人が昭和二八年一〇月一三日反町診療所から借用して所持していられるので、同弁護人に対し本領収書の提出を命じていただきたい。)、神糧保険組合の歳出簿一冊、吉沢一郎に対する昭和三一年三月一八日付警察官一通(同人は昭和三七年に死亡しているので、刑事訴訟法三二一条一項三号書面として申請し、死亡の疎明資料として吉沢せい作成の死亡届謄本一通を提出する。)の取調べを申請し、なお後に証人柴田一男を追加申請した(なお、小林美枝子は、理容学校卒業後昭和二七年三月から同年一二月二八日まで中田方で半職人として勤務していたが、同人が勤めはじめたころは、中田が自分で屋根にのぼって煙突掃除をしており、小林もこれを手伝ったことがあり、昭和二七年冬、中田の命令で店の前を通りかかった煙突掃除人を呼びとめて煙突掃除を依頼した、それまで同店で専門の掃除人を頼んでいたという話は聞いたこともなく、その呼びとめた人は山下や榎本でなく、大野清という掃除人である、小林がいるとき、中田が自分で煙突掃除をしたり、大野に掃除してもらったのは定休日の火曜日でなく、営業をしている日であった、福田阿佐子は、昭和二七年四月理容学校に入学し、その後間もなく中田方に日曜祭日だけ見習として通勤するようになり、昭和二八年三月学校を卒業してから正式に中田方の職人となった、同人は昭和二七年一一月から翌二八年三月までの間に二回、中田が同店雇人と一緒に煙突掃除をしたのを見たことがある、また同人は昭和二八年の冬からは中田方に専門の煙突掃除人が掃除にきたが、営業日にきたり、定休日にきたりしているのを見ている、柴田一男は、前年の昭和二六年一月から同年四月まで中田方で職人として勤めていたもので、昭和二六年当時同人が三、四日おきぐらいに中田と二人で煙突掃除をしており、掃除は何曜日と別に日はきめていなかった、というのである。)。しかし、一審判決及び旧二審判決は、ともに中田清一、中田トヨ子、榎本寿助の各証言を総合し、被告人山下が中田理髪店に雪の降った同店の休みの日(火曜日)に煙突掃除にきたこと、そのとき榎本寿助は自転車のチエンが切れたといって被告人山下の掃除が終ったころきたことなどを認め、なお一審判決は、山下や榎本がきたのは昭和二八年の二月であるようにも思われるといい、旧二審判決は、昭和二七年二月の二六日に該当するとも考えられるというだけで、右事実認定の根拠となった前記各証言の信用性はあえて疑っておらず、破棄判決も同じようにこれらの証言を措信する立場に立って前述のような判断を示しているのであって、従来検察官もこの点について何ら反証を提出していないのに、一〇余年を経た今日、事件差戻後の当控訴審において、前述のように従来の関係証人の証言内容は誤りであるとして反対証拠を申請するがごときは、そもそも相当でないばかりでなく、その申請する証人小林美枝子、福田阿佐子、柴田一男はいずれも事件当時中田方に雇われていた者ではなく、事件後ないし事件前に雇われていたに過ぎず、かつ申請の理由によっても、それ自体本件の反証として適切な証拠とはいえないし又その余の申請証拠は、すべて榎本証言中の記憶の不確実な点(榎本証言によれば、「そのとき床屋以外にもどこかえ行ったのだが、それが多分反町の診療所と思う」とあるだけで、はっきり断言していないし、その前後ごろに反町診療所に掃除に行ったことは検察官も認めているとおりであるから、これこそ記憶の混同がなかったとは、必ずしもいいきれないであろう。)や枝葉末節の点などを攻撃しようとするもので、本来の争点に関する証言の信用性に影響を与えるものとは認められないから、裁判所は、いずれも取調に値しないものとして却下したものである。

したがって、破棄判決が以上二つの争点について示した判断もまた、当審はこれを維持することになるわけである。

以上の次第で、一審判決には、破棄判決がいうように、まず「二月一九日事件につき、被告人らの自白その他の証拠の価値判断を誤った疑がある」としなければならない(なお、本件貨車にサイドブレーキがかかっていたことが疑わしくなれば、それはまた本件貨車の暴走が自然流出事故であるかも知れないことの一証左にもなろうし、又被告人山下のアリバイが認められると、従来の説明で判るように、それだけで二月一九日事件が被告人らの犯行によるとする根拠がくずれることにもなるであろう。)が、さらに、以下述べるとおり、当審で検察官から新らしく提出された被告人らの捜査段階における警察官ないし検察官等に対する各供述調書の内容を検討し、その供述の変遷過程を観ると、この点からも、二月一九日事件だけでなく、これを含めてすべての事件に関する自白について、その信用性に疑が持たれるのである。

一四、(一)宇津木の自白(供述)について

記録によれば、宇津木は、西村とともに一審公判で終始本件犯行の全部を自白しており、一審否認組公判では七回にわたる証人尋問に際しても一貫して各被告人の犯行を証言し、又捜査段階では別の窃盗事件で昭和二八年一月九日逮捕勾留され取調中(昭和二八年九月七日保釈釈放)、一月一八日最初に本件犯行の一部を自白して(最初に犯行を自白した者が宇津木であるか池田であるかについては当事者間に争があり、和田証言によれば、池田の自白が最初であるというのであるが、調書上からは必ずしも明らかでなく、そのとき自白した以外の事件についてもその後宇津木が多く他の被告人に先がけて自白をしていること、伊藤順二郎の一審証言によれば、同人が一月一九日逮捕されて福生警察署に連行されたとき、刑事から「宇津木が伊藤も列車妨害をやっていると述べた」と聞かされたということ、後に述べるように和田証言必ずしも信用しがたいことなどを考え、一審公判における池田及び宇津木の各証言に照らすと宇津木が最初の自白をしたとみるのが相当である。)自白の端緒を開き、残りの犯行についても多く他の被告人に先がけて自白しているのであって、同人の供述は本件を検討するうえに重要な意義をもつものである。以下当審で提出された宇津木関係の各供述調書を中心に一審公判で取調べた同人の検察官に対する各供述調書及び裁判官の各証人尋問調書ならびに公判廷における供述をも加えて自白の経過の筋をたどって見ると、概略次のようになる。

宇津木の28・1・18河野(警)調書(28・1・18は昭和二八年一月一八日付の略、(警)とあるは警察官調書、(検)とあれば検察官調書、(裁)とあれば裁判官調書を示す。頭書は取調べた係官の名である。以下これに準ずる。なお年号の略記がないときは同年を指す。)をはじめとして1・20円堂(警)調書、≪中略≫2・8保土田(警)調書までの各調書によれば、これらはいずれも一〇月一日事件ないし一〇月三日事件について述べ(1・18調書、1・20円堂調書では、「小作駅を中心に鉄道妨害を三回やった、一〇月一、二日ごろ及び一〇月三、四日ごろのほか九月二七、八日ごろにも一回あり、池田に誘われ岩井も加え三人で、小作駅東方第二踏切辺で注意標のような棒を抜いて線路に横たえ、又踏切のレールと枕木の間に砂利石を詰めた」と計三回の鉄道妨害の事実を述べたが、間もなく訂正し、「当時噂で三回妨害事件があったと聞いたが、一回は他の人がやったらしい」という。)、犯行の動機については、弥一が「今晩青梅線の妨害をやろう」と言ったということからはじまり、宇津木自身の小作駅員(その一人は山下)に対する反感から駅員を困らせてやろうということに変り、さらにこれに石田から「小作の駅員に面白くない野郎がいるから」と言われ、そして弥一も同様河辺駅に面白くないことがあって目をつけられているということが加っている。共犯者については、一〇月一日事件につき、「最初宇津木は相談を受けただけでやったのは中垣弥一、伊藤、西村の三人である」と述べた後、間もなく宇津木、池田、岩井の三人でやったとなり(1・20河野調書では、一〇月一日事件につき、「前に弥一、西村、伊藤順二郎を加え六人でやったと述べたのは誤である、当時新聞等であまり騒がれたので三人きりでしたというのが恐しくて六人と言った」と述べているが、1・18調書によれば、六人と述べたのは一〇月三日事件のことであり、前記供述は理解できない。)、最後にそれに弥一、西村を加えた五人と変り(石田は謀議に参加していたが、用があるということで実行には入っていないと述べる)、又一〇月三日事件につき最初宇津木を含め池田、岩井、伊藤順二郎(同人の一審証言によれば、一月一九日列車妨害の件で逮捕されたが、事件当時別件で警察署に挙げられていたことが判明し、翌日釈放されたというのである。)、弥一、西村の六人をあげていたが、間もなく伊藤の代りに知らない男一人と変り、それが再転して弥一の友達となり、ついで石田に落ちついた(始め伊藤の名をなぜ出したか、この段階では理由を明らかにしていないが、後に述べるように、4・22和田(警)調書で、石田の代りにしたと弁明し、そのわけを詳細述べている。なお、1・21和田(警)調書によれば、一〇月三日事件につき、宇津木、池田、岩井、弥一、西村、弥一の友達一人と計六人でやったと述べたうえ、「今まで宇津木、池田、岩井の三人でやったと言ったのは嘘で、弥一と西村のことを言わなかったのは弥一のことをいうと自分が刑務所を出てから殺されると思ったからである」と述べている。しかし、宇津木がそれまで三人でやったと述べてきたのは一〇月一日事件のことで、一〇月三日事件については弥一、西村を含め六人でやったように述べているのであって、この調書に記載された供述の内容は不可解である。)。実行行為については、供述が首尾一貫せず、一〇月三日事件で池田が小作駅西方踏切で信号機のワイヤーをいたずらしたことを当初述べているが、この被害事実は記録上存しない。また、一〇月三日事件の鉄道専用通信線の電柱の切断に使用したとされる鋸、電柱付近の茶畑で発見されたバールの出所について述べているが、すくなからず供述の変更がみられる。すなわち、最初は、鋸は岩井が家から持ってきたというのが、間もなく鋸は宇津木が自宅の床下から、バールは西村か弥一が西村の家の縁の下から持ち出したことに変り、その同じ調書(1・20円堂(警)調書)で読聞けの際、「私は鋸を持って行かない、電柱を切ったことも知らない」と否認したのち、その後西村が鋸とバールを同人の家の縁の下から取り出したことになり、バールについては、さらに弥一が昭和石材の仕事場のまきあげ小屋から持ってきたことに変り、鋸については、宇津木が石田が本家の氷小屋から持ち出した旨具体的詳細に述べるのである。そしてこれら一連の調書を通じて見られる特異な点は、各調書の内容は、それだけを取りあげて見ると具体的詳細で虚偽の事実を述べているとはとうてい認められないほどであるのに、すぐその供述が変り、しかも前と異なる供述に入るとき、「今までは嘘を言っていて申訳ない、こんどこそは真実を述べる」旨強調ないし確約しながら、それがまたいつしか嘘であったというようになっているのであって、変更の理由は必ずしも明らかに述べられていないことである。

次に3・3和田(警)調書、≪中略≫4・22和田(警)調書を見ると、宇津木はこれらによりはじめて九月一七日事件、一二月八日事件、二月一九日事件及びいわゆる平和亭謀議について述べている。注目すべきは、宇津木は、前記最後の2・8保土田(警)調書作成の翌日にあたる昭和二八年二月九日に、中垣弥一、池田、西村、岩井とともに、一〇月一日及び一〇月三日両事件につき起訴されている(記録によれば、石田は二月二八日に一〇月三日事件につき起訴された。)のであるが、右保土田調書から3・3和田(警)調書までの間に二〇日間以上の調書作成の空白のあることであり、斎藤訓正の当審証言(同人は二月中旬ごろから宇津木を数回取調べてきたが、三月一日ごろ桑名刑事と二人で取調べた際、同人はそれまで小作の駅員に恨があってやったようなことを言っていたが、それにしてはやり方がしつこい、一〇月一日、三日は青梅の市制祝のお祭であったのに、お祭をほっぽりだしていたずらをするというには動機が薄弱だという気がしていたので、最初動機について追及したところ、宇津木は、「弥一から頼まれたんだ、『誰かわからない、名前もわからないんだが、共産党に頼まれたんだが、電車にいたずらをしないか』というように中垣から持ちかけられた、自分としてはそんなことはやりたくないけれども、その当時ぐれていた仲間じゃ割合顔のきく方だったし、つきあいもいい方だったから、『野郎おじけついた』と思われるのも癪なので引受けた」と言った、その日は頼んだ人が誰であるかということは言わなかったが、翌日その点を追及したところ、中垣のセナ(中垣好一)とオキチャン(大沢)だと言いだした、中垣のセナという前に瑞穂の方の男だとか、弥一と一番親しい男だとか言っていたが、結局それは中垣のセナで、もう一人はオキチャンだというふうにしてはじめて好一と大沢の名前を出した、そして九月一七日事件を自供したというのである)と合わせて考えると、右空白の期間中、動機、共犯関係などについての追及的取調べが日時をかけて相当以上厳しく行われていたであろうことが推察に難くない。このようにして、宇津木は、前記3・3和田(警)調書では、犯行の動機について、今まで小作駅員に対する怨とか又酒に酔って面白がりにやったと言っていたのは嘘で、真実は中垣弥一に手伝ってくれと頼まれ、金になるようにも言われたので、やったものであること、共犯者として、中垣好一が一〇月一日事件に、同人と大沢の両名が一〇月三日事件に関係し、一〇月三日事件では好一と大沢が主として見張り役と指揮をしていること、一〇月三日事件で鋸は宇津木が現場に行く前に大沢から手渡されたこと、宇津木、弥一、西村、中垣好一、大沢の五人で九月一七日事件も敢行したことをはじめて述べ、引続き、3・10平本(警)調書では、九月一七日事件の共犯者として、さきに述べた五人のほか池田、岩井を加え、3・11平本(警)調書では一〇月一日事件の共犯者は、大沢が入って七人となることを述べている。3・23平本(警)調書では、「今までかくし事をしていて誠に申訳ない、今日はすっかり真実のことを申上げるからきいて下さい」ということではじまって、新らしく一二月八日事件を言い出し、共犯者は、従前名の出ている八人のほかに野崎を加えた九人であること、犯行後好一から「またやるから頼む」と言われたが、ああいう人間(共産党だから何するか判らない、火でもくっつけられると思った)だから何をするか判らず、おそろしくて断れなかったことを述べているが、野崎については何の説明もなく、このときのメンバーは誰々であったという中に突如野崎の名が出てきただけでその出現のいきさつについては全くふれていない。そして調書の末尾に近く、「この時被疑者は、あの貨車流しをやった時は捕ると思ったと呟いた、問、『それはどういう事か』、答、『貨車を押出した時、野崎が見張りをしていて、音がした、うまくねえと云ったので危いと思った』。その話は又後で聞くことにしよう」との記載があることは注目すべきである。3・29平本(警)調書(第一二回調書)では「この前の調べのとき今までの調べに際しかくして話さなかった野崎が一緒にやったことを話したが、この野崎の名前を出したからには、この電車のいたずらは最初のことから話さないとはっきりしない、それからもう一人山下という人もでてくる、今日はさっぱりと最初からのことから申上げる」と言って、平和亭謀議のこと(「昭和二八年九月一四、五日と思う、中垣の舎弟(弥一)から『話したいことがあるから』と云われ、小作駅の北側の二階家に案内された。野崎が間借している二階の一室には、野崎、中垣のセナ(好一)、西村オキ(大沢)のほか山下某がいた、このとき中垣のセナから『今晩電車のいたずらをやる相談をするから頼まれてくれ』と言われたので、これはえらいところへきてしまったと思った、それというのは、中垣のセナは共産党だという噂を前からきいていたからで、一応断ろうと思ったが、他に二、三人いてこわかったので、返事をした、この席上では、ポイントに石を詰めたり、鋸やバールも使ってやるなどという話もでた、それで道具は山下が用意するような話にきいた、『やるときは舎弟から連絡するから頼む』と中垣のセナから言われた」)、九月一七日事件に野崎、山下も関係しており、野崎は見張り、山下は岩井と二人でポイントをやった(3・10平本調書では岩井が一人でやったようになっている)ことを述べ、3・29平本(警)調書(第一四回調書)では、一〇月一日事件には野崎、一〇月三日事件には野崎、山下も関係していること、「鋸につきこの前オキさん(大沢)から受取ったと言ったのは嘘で、事実は、西村のところへ行く途中昭和石材の引込線のところで中垣兄と大沢に会ったとき、兄から、野崎の家へ行って鋸を持ってくるよう言われたので、一人で野崎の家へ行く途中で野崎と山下の二人に会い、中垣の兄の話をすると、野崎が『持って行け』と言って新聞紙より少し硬い紙に包んであった鋸を渡してくれ、山下が『このバールもついでに持って行け』と言って渡してくれた」と述べている。4・7平本(警)調書では、本件被告人八人のほか、石田、岩井を加えた合計十人で二月一九日事件をやったことを詳細に述べ、そのいきさつについて、一二月八日事件をやって別れるとき、「今度は貨車流しをやる」と聞いていたが、二月一九日の前の日、弥一から「又小作駅で貨車の悪戯をやるから」と言われ、「よすべえ」というと、「いや、これが最後だから」と頼まれ、あとがうるさいので、嫌々ながら承知したというのである。この調書は宇津木の二月一九日事件に関する最初の調書であり、右調書に見られる、犯行前に被告人らが待機した場所が小作駅東方第一踏切の南側にある下田方横であること、宇津木らが残留四貨車を一度に押したことなどの供述は、その後検察官に対する供述(4・15藤(検)調書)で、待機場所は第一踏切北側の清水方裏に、貨車はこれを切りはなして二度に押したことに変っている点は注目すべきである(斎藤の当審証言によれば、同人は、前記のように宇津木の九月一七日事件についての自白があったのち、現場の引当りをなし、さらに三月一八日か一九日ごろ二、三日連続して鋸の出所、処分関係につき宇津木を追及取調べた結果、同人は共犯者として共産党員の野崎の名を出し、平和亭謀議を述べて山下の名をも出し、同時に一二月八日事件、さらに二月一九日事件を自白するにいたったというのであるから、右証言どおりとすれば、すでに三月二〇日ごろこれらの事実につき宇津木の自供があったにかかわらず、自供と同時に供述調書は作成されず、前記のように三月二三日、同月二九日、越えて四月七日というように次々にはじめてこれらの調書が作成されるにいたったとみられるのである。そしてこのことは、前述のように3・23平本(警)調書中に二月一九日事件の片鱗が問答形式で記載されている点からも肯認できる。)。ついで4・22保土田(警)調書では、宇津木が野崎方に行ったのは、平和亭謀議のとき、二月一九日事件のとき、本件後飲みに行ったときの三度であると述べ、4・22和田(警)調書では、自白の経過として「この事件につき当初取調べられている当時から、いたずらをした仲間が誰であったかよく知っていて、もちろん中垣兄弟、野崎、山下、大沢、石田、池田、岩井、西村と私の十人であることは知っていたが、このうち中垣の兄、野崎、山下、西村清(大沢)、石田らは私より頭株で、いつも申し述べたようにそのつど口を堅くとめられ、ばらしたらおそろしい目に会わされると思っていた、しかし警察ではこの事件は今少し多い人間によってなされていると見ていた、だからといって私達の親方株のことは話されず、はじめに池田、岩井、中垣の弟、西村、伊藤順二郎の六人だけを出したのであって、このうちの伊藤は実のところ石田の代りにしたのである、親方株のうちで石田が一番下のようにも思えたので、石田の名をはじめ出そうかとも思ったが、名を出すとおそろしいと思い伊藤を出した、それに伊藤を出せば上の方の連中を出さずにすんでしまうものと思っていたからである、この伊藤とは一緒に窃盗をしたこともあり、不良仲間として知っていた、池田も伊藤が参加したと云っていたとすれば、私と同じ考で、それに池田は十人のメンバー中顔の知らない者もかなりいたことであるから、感違いした点があるかも知れない」と述べている。

以上の宇津木の3・3和田(警)調書から4・22和田(警)調書までの間に作成された一審公判で取調済の同人の3・28、3・30、4・2、4・9、4・15各藤(検)調書及び4・10(裁)調書があるので、これらを見ると、3・28藤(検)調書では一〇月一日、一〇月三日両事件につき、3・30藤(検)調書では平和亭謀議、九月一七日事件につき、4・2藤(検)調書では一二月八日事件につき、4・9、4・15各藤(検)調書では二月一九日事件につき、それぞれ原判示にそう事実を述べ、4・10(裁)調書では平和亭謀議、九月一七日事件から一二月八日事件にいたるまでの原判示にそう事実が述べられている。すなわち右に見たように宇津木の検察官に対する各供述調書ないし裁判官の証人尋問調書は、三月二八日以降の段階では、原判示にそう内容のものとなっており、五月一日以降も同人の検察官に対する供述調書が相当数あり、又裁判官の証人尋問調書も一通ある(いずれも一審公判で取調済)が、これらの内容は、大綱において従前のものと何ら相違するものでなく、細部にわたる補充訂正が施され整理されたものとなっており、宇津木の一審公判における自白又は一審否認組公判における証言はこの整理された供述とほぼ一致している。最後に当審で提出された6・11藤(検)調書では「私は現在福生地区警察署に勾留されているが、刑務所に移監されるより現在の所にいる方が何かにつけてよいので、移監はしていただかない方がよいのです」と述べている。

(二) 西村の自白(供述)について

記録によれば西村は、はじめ本件で昭和二八年一月一九日逮捕(以来勾留中昭和二八年九月七日保釈釈放)されたが、当初否認を続け、二月九日の起訴の前日犯行の一部を自白し、その後逐次他の犯行についても認め、前述のように宇津木とともに一審公判でも終始犯行のすべてを自白しており、原審否認組公判では八回にわたる証人尋問に際しても一貫して各被告人の犯行を証言しているのであって、その供述は、宇津木の自白とならんで、本件を検討するうえに重い位置を占めるものである。以下当審で提出された西村関係の各供述調書に一審公判で取調済の同人の検察官に対する各供述調書、裁判官の各証人尋問調書、公判廷における供述をも加えてこれらの内容を宇津木の場合と同様概観することとする。

1・19円堂(警)弁解録取書から2・3大迫(警)調書までの合計六通の調書では、逮捕にかかる被疑事実である一〇月一日、一〇月三日両事件の犯行を否認し、右両日の西村の行動、したがってそのアリバイに関する事実を述べており、2・8斉藤(警)調書ではじめて一〇月一日事件につき、2・8桑名(警)調書で一〇月三日事件につきそれぞれ自白している(斉藤の当審証言によれば、同人は保土田係長から、勾留満期が近いのに依然否認を続けている西村の取調を命ぜられ、二月六日その準備として池田を取調べた結果、同人は一〇月一日、一〇月三日両事件に西村も加わっていること、西村とは他にもレールポンドの窃盗もしていると述べたので、翌七日右窃盗の裏付捜査をして池田のいうことが事実と判ったので、これを参考にして桑名刑事とともに西村を調べ、本当にやっていないのかというふうなことでいろいろ説明したり、家庭のことを話したりしているうちに、同人は泣き出して右窃盗事件を自白したのち、一〇月一日、一〇月三日両事件をも自白するようになったが、当夜は時間がおそかったので、調書は翌日作成したというのであり、保土田の当審証言もこれに符合する。)。右斉藤調書では「前回までは共犯者の宇津木や池田達が私同様否認しているものと思って頑張ってきたが、自分の良心に対しても、これ以上嘘をつくことが苦しいので本日は一切のことを正直に述べる」として「宇津木から誘われて電車に妨害したのは、前後二回あり、一〇月一日事件の共犯者は、西村、宇津木、中垣弥一、池田、岩井の五人で、宇津木が『俺は前に電車で通っているとき駅員に面白くない奴がいて喧嘩したり、俺の兄貴の定期券を取りあげたりしたから、今夜いたずらをしてやらう』と言ったことから、ともに犯行するようになった」旨述べ、桑名調書では一〇月三日事件につき、「鋸は池田が、バールは弥一が持ってきたと思う」旨述べているだけで、共犯者の数その他詳しいことは述べていない。2・8藤(検)調書では「一〇月一日事件は五人でやり、宇津木が『自分ら(宇津木、池田、岩井)は小作駅の方でいたずらをするから、お前ら(西村、中垣弥一)は河辺駅の方でやれ』と指図した、一〇月三日事件はそれに石田を加えた六人で行った、本件の一番の首謀者は宇津木で、次が石田、中垣弥一の順だと思う」旨述べ、一〇月一日事件は五人で、一〇月三日事件は六人でやったことは絶対に間違いないことを強調している(翌日西村は一〇月一日、一〇月三日両事件につき起訴されている。)。2・10保土田(警)調書では、当初の否認から自白に変った理由として、「中垣(弥一)や石田、宇津木らが『どんなことがあってもバラスな』と堅く口止めしたから、もし私が先に話したことが判れば、あとでおどかされると思ったので嘘を言っていた、警察に入ってよく考えると、やったことはいつかは判ることだし、私が親方でやったのではないから、真実の話をしたのである」と述べたのち、「それだから現場の模様も教わらずに私の覚えているだけを正直に言った」と述べている。

その後3・3藤(検)調書が作成されるまで二〇日間以上調書作成のない空白期間があることは、さきに検討した宇津木の調書の場合と同様であるが、右藤調書では従前と比べさして供述の変化はなく、3・11大舘(警)調書で中垣好一、西村清(大沢)の両名の名がはじめて出てくる。すなわち、同調書では「まだかくして申上げない二人の男、中垣弥一の兄と長岡の西村清がある、そのためいろいろ刑事さんにご迷惑をかけた、それというのは、いたずらをした直後絶対に警察につかまっても話さないことと堅くお互いの約束があり、又外に出たとき、仲間の者にいじめられると思いなかなか申上げられなかったわけだが、いろいろ考えるとこれではなかなか解決しないと思い、只今から本当のところを正直にはじめから申上げる」ということからはじまって、九月一七日事件を中垣兄弟、宇津木、西村、池田、岩井、大沢の七人で行ったことを述べ、3・23大舘(警)調書では、前にあげた八人に野崎を加えた九人で一二月八日事件を犯したことを詳述しているが、野崎については、突如としてその名が出てくるのであり、そのいきさつについては何も語られていないのは宇津木の場合と同様である。なお、最後に「昭和二七年二月中旬ごろ小作駅で貨車を流したことがあるから、後程述べる」と付言している。3・26大舘(警)調書では、九月一七日事件につき、共犯者として野崎、山下の両名を加え(宇津木の場合は、3・29調書で山下の名が出た。)、「今までこのことを述べなかったのは、二人の名前とその人たちが何をしたのか思い出せなかったからで、別にかくしていたというわけではなく、その人たちに迷惑をかけてはいけないと思って言わなかった」と述べ、野崎、山下がどんないたずらをしたか知らないが、ただ好一が両名に何かときどき相談をかけながら指揮したことを述べている。3・27大舘(警)調書(二通)では、一〇月一日事件の共犯者は前の五人に中垣好一、大沢を加えた七人であること(3・11調書で共犯者が七人であることをすでに述べているが、行動の内容は説明がなかった)、好一が犯行の場所、分担を決めたこと、一〇月三日事件の共犯者は前の六人に中垣好一、野崎、山下、大沢を加えた一〇人であること、犯行後野崎、大沢、好一に口止めされたことなどを述べ、4・8大舘(警)調書では、はじめて二月一九日事件の内容を語り、共犯者は一〇人で、犯行前好一が各自の仕事の分担を決めて実行したことなどを詳述しているが、実行行為について「貨車がなかなか動かないので、野崎がどこからか六尺くらいの長さの鉄丸棒でできたバールを持ってきて、二台目後方のホーム側車輪にかけてこずいたら動きはじめた」と述べている点は、のちの4・10吉良(検)調書では、貨車を押す前後に野崎がそのような鉄棒を持っていたという記憶がないので、その鉄棒で車を動かしたということは断言できないとなっているのが注目される。なお、4・8調書では「自分としては、中垣兄弟、野崎、大沢がこわかったので牛や馬と同じように使われただけで、いたずらをしたことについて煙草一本もらっていない、最後のお願いとして中垣兄弟、野崎、山下、石田、大沢とは公判を分離してやって下さい、昭和石材に勤めている長岡の丹生という人夫から中垣兄は共産党であるという話を聞いているし、他の者とはこわくて話をするのも嫌になる」旨述べている。

前記4・8大舘(警)調書から4・22保土田(警)調書にいたるまでの間に作成され、一審公判で取調済の西村の検察官に対する供述調書五通及び裁判官の証人尋問調書一通があるので、これらの内容につき見ると、3・31(五回)藤(検)調書では九月一七日事件につき、4・9吉良(検)調書では一二月八日事件につき、4・10吉良(検)調書では二月一九日事件につき、裁判官調書では本件全部につき、それぞれ原判示にそう供述をしている。その後四月二二日から五月三一日にいたるまでの間に作成され、一審公判で取調済の西村の検察官調書五通、裁判官調書一通もあるが、これらの内容は、いずれも大綱において従前の供述と変りなく、細部の補充訂正が施され、整理されたもので、西村の一審公判における自白ないし一審否認組公判での証言は、この整理された供述とほぼ一致していることは、宇津木の場合と同様である。最後に6・11藤(検)調書には、宇津木と同じように、「私は現在福生地区署に勾留中だが別に警察官にいじめられたりなどされるようなことはなく刑務所に移監されるよりも現在のところにいたほうがよいので、その点よろしく願います」と述べられている。

(三) 池田の自白(供述)について

記録によれば、池田は、前述のとおり昭和二八年一月一八日逮捕(以来勾留中昭和二八年九月九日保釈釈放)されると、宇津木についですぐ本件犯行の一部を自白したのち、捜査段階において本件各犯行を逐次自白し(もっとも後に述べるように、途中で二回ほど否認したことがある。)、一審第二回公判でも起訴状記載の本件公訴事実を大体認め、その直後施行された一審の現場検証に際しても現場で犯行の状況を指示説明したが、一審否認組第二五、第二六回公判で証人として尋問されるに及んで犯行を否認し、その後偽証容疑で逮捕されるや、検察官に対し偽証の事実を認めながら、一審自白組第一二回ないし第一四回公判では再び犯行を否認するにいたったものである。以下宇津木、西村の例にならって、当審で提出された池田関係の各供述調書に一審公判で取調済の同人の検察官に対する各供述調書なしい裁判官の証人尋問調書を加え、概観することとする。

池田の1・18和田(警)弁解録取書から≪中略≫2・25藤(検)調書までは、一〇月一日事件又は一〇月三日事件に関するもので、すなわち、一〇月三日事件の共犯者については、当初池田、宇津木、伊藤準一(のちに伊藤順二郎と訂正)、伊藤政利、中垣弥一ほか一人の六人が、後に池田、宇津木、岩井、中垣弥一、伊藤準一(順二郎)、西村の六人、さらに池田、宇津木、岩井、中垣弥一、西村の五人、最後に池田、宇津木、岩井、中垣弥一、西村、石田の六人と回を重ねるごとに供述の変更があり(2・5藤(検)調書によれば、はじめ伊藤順二郎が関係あるように言ったのは石田の人違いであったと簡単に述べているだけであるが、1・19和田調書では、伊藤が主役であったとしてその行動を具体的に述べていたのが消えて、ここでは宇津木が指揮者的行動をとっていたように述べ、又ここで述べている石田の行動は前の伊藤の行動とは全く別のものとなっている。この点は前述のように宇津木も当初共犯者として伊藤順二郎の名を出し後に訂正するにいたったことと関連し注目すべきである。)、一〇月一日事件の共犯者は、はじめから池田、宇津木、岩井、中垣弥一、西村の五人となっている。犯行の動機は「宇津木が『福生の駅員に恨みがあるから、その気晴しに妨害する』と言って自分を誘った、自分としてはそのような恐ろしいことをするのは気が進まなかったが、断れば宇津木から撲られると思って加担した」というのであり、先頭に立って指揮したのは、宇津木、中垣弥一の両名と思う旨述べている。又一〇月三日事件で電柱の切断に使用した鋸は、「宇津木が自宅から持ってきた、その柄に焼印が押してあったので同人宅の物に相違ない」旨、同事件のバールは「誰の物か判らぬが、西村の家から持ち出したものに相違ない」旨述べている(この点について、1・19和田調書で、池田が宇津木と岩井の家に行ったとき、宇津木の自転車の荷掛けに、裸のままで鋸が置いてあったのをはじめて見たというのであるが、後の5・15大舘(警)調書によれば、池田が一人で西村の家の近くで西村を待っているとき、宇津木が自転車に乗って荷掛の上に薄白い紙に包んだ柄のついているものと車体のところに棒の様のものをつけて西村の家の方に向って通り過ぎて行ったが、あとでその荷掛けにあったものが鋸であり、又車体のところにあった棒の様のものは弥一の自転車のサドルの下についていてバールということが判ったということに変っている。)。実行行為については、たとえば、一〇月三日事件の電柱の切断につき、はじめ池田は全然関係しないといっているが、のちには池田自身切断に従事したことになり、転じて岩井、宇津木、弥一が切断するのを目撃したことに変り、その後また切断したのは岩井、西村となっているというように、いくたびか供述の変更がみられる。又同事件で、信号機のワイヤーロープを切断したというような記録上被害事実が認められない事実が当初の供述にあらわれているのも、宇津木の場合と軌を同じうする。

次ぎに3・7(裁)調書から3・27渡辺(警)調書までの内容を見ると、3・7(裁)調書で、本件の列車妨害事件には全然関係ないと否認し、「私は警察で殴られたりしたので自分で勝手に嘘のことを作りあげて言ったり、警察の人が地図を示して『こうだらう、ああだろう』と言われたので、そのまま『そうです』と言った」旨供述しているが、3・10桑名(警)調書では、小作駅付近で電車の線路にいたずらをしたのは三回であるとし、はじめて九月一七日事件を言い出し、共犯者としてこれまでの宇津木、西村、岩井、池田、中垣弥一のほか中垣好一、大沢の両名の名を出したうえ、同事件ではその場の様子から見て一番親方株は中垣の兄であるように思われたこと、一〇月一日と一〇月三日事件もこのときと同じ連中でやったことなどを述べている(この点につき、宇津木、西村の場合と同様、前記2・11斉藤調書からこの調書まで一ヶ月間も警察官調書が作成されていないことが注目されるべきである。そして斉藤の当審証言によれば、「二月二〇日ごろ池田が否認したことがある、これは鋸の出所や処分について追及したところ『鋸なんか知らない』と言い出し『今まで言ったことは全部嘘だ』と否認した、そして一〇月一日と三日のアリバイを申し立てた、そこで翌日アリバイの成否を調べたが、池田の主張するような事実はなかった、アリバイがくずれたので、その翌日『池田君が言っていることは違うではないか』と言って調べたところ、『どうも申し訳ない、すみません』ということで前と同じ自供にすぐ戻った」というのであるから、右期間中に池田に対する追及的取調がなされたこと及び同人が否認した際これが調書が作成されなかったことが同証言により認められる。)。3・21保土田(警)調書では、さきに裁判官から尋問された際否認したことについて、「検事の公訴記録(起訴状の意味か)には私のやっていないことまで六つも書いてあったので面白くないから『やった覚えはない』と嘘を言ったのですが、私のやったことさいはっきりすればよいというのなら正直に話しますからもう一度判事さんに会わせて下さい、お願いします」と述べたあと、一二月八日事件を供述している。すなわち、共犯者として、宇津木、西村、岩井、中垣兄弟、大沢、石田、池田、顔の知らない二二、三歳の池田より肥っている男の九人であること、今までこの事件を話さなかったわけとして、「私はこれまで悪いことをしたことで判事さんの前でひっくりかえり、まだきまりがつかないから先に小作駅付近のいたずらを解決してから話そうかと考えてはいたが、中垣のセナ(好一)が共産党だからここを出てから何をされるか判らんのでこれが恐ろしくて話せなかった、このことが私には一番こわい、中垣のセナの次に宇津木がこわくてやってしまった」ということを述べているが、顔の知らない男の行動については何の説明もない。3・27渡辺(警)調書では、各事件の共犯者につき、従前の内容を訂正整理し、九月一七日事件のときは、宇津木、岩井、西村、大沢、中垣兄弟、池田のほか、めがねをかけた知らない男の八人であること、一〇月一日事件のときは、これまでの七人のほか、めがねをかけていない知らない二一、二歳の男の八人であること、一〇月三日事件のときは、九月一七日事件のときの八人に石田を加えた八人であること、今まで知らない男のことを言わなかったわけは、「九月のときと一〇月一日のときはいたずらをした手元を見なかったからで、一〇月三日のときは石詰や杭を抜くのを手伝ったといってもほんの少ししかやらないし、電柱切った駅の方へ行ったりなんかして可哀想だったので言わなかった、知らない男のことを言わなければならなくなったのは、一二月八日事件のことを話すとき、話さなければならなくなって全部本当のことを言う気になった」ということを述べている。

次に当審で提出された4・8、4・16、4・13各渡辺(警)調書、5・15大舘(警)調書、6・11藤(検)調書と4・1藤(検)調書をはじめとし、四月初旬から五月下旬にかけ右警察官調書等に併行して作成され一審で取調済の同人の検察官に対する各供述調書ないし裁判官の各証人尋問調書によると、変ったところでは、4・8渡辺(警)調書で、はじめて二月一九日事件に触れ、従前これを供述しなかった理由などにつき「このことは今までかくしていたが、そのわけは一度に聞かれても一〇月一日と三日の事件のときのように話が喰違ったりするので順々に話すつもりでいたので悪気でかくしていたのではない、公判までにそっくり自分のやった悪いことを話せば良いと思っていた、今まで刑事に調べられるたびに悪いことをしてもそのことを話さなくても良いという規則があると聞かされているから、話さなくても良いことは知っているが、本当に自分は悪いことをしているのでそのことを話すのです、その代り自分の知らないことは話しませんよ、誰が何と言っても自分のやらないことはやらない、知らないことは知らないんですから」と述べたのち、右事件を犯すまでのいきさつ、共犯者が中垣兄弟、宇津木、西村、岩井、石田、大沢、池田、めがねをかけた知らない男、めがねをかけない知らない男の一〇人であること、実行行為として、「池田、岩井、宇津木の三人が一番羽村寄りの屋根のある貨車の東側のブレーキのついているところへ行ってブレーキをはずし、又右三人が二番目と三番目の貨車の間に行き、池田が貨車と貨車をつないであるげんこつみたいなところから横に出ている鉄棒を上にあげてつないであるのをはずした、そこへめがねをかけた知らない男(4・16保土田(警)調書によれば野崎という)がきてゴムのホースを切りはなした、すると貨車の横の方でピューと空気が抜けるような音がした、そのあと切りはなした羽村寄りの二台の貨車を押した」ことなどを述べている(ブレーキを外した点の供述は貨車の実際の状況に反するし、その他各人の行動役割については、宇津木、西村の最初の供述と比較するとそれぞれ互いに相違した部分が多い。)が、めがねをかけない男(4・16保土田調書によれば山下)の行動については触れていない。4・11藤(検)調書では、二月一九日事件につき多少供述が変り、前の屋根のある貨車のブレーキを外したとの点は消え、東から二番目の貨車のサイドブレーキを外したことを述べているが、めがねをかけない男(山下)の行動についてはやはり特別の説明はなく、「めがねをかけた男(野崎)が二、三両目の貨車の連結器の下にしゃがんで何かしているようであったが、エヤーホースを外したかどうかは判らぬ」といっている。4・18藤(検)調書では一〇月三日事件につき大体原判示第三どおりの事実を詳述し、4・23渡辺(警)調書(二通)では、池田が最初本件の共犯者として伊藤順二郎の名を出した理由として、「伊藤は同じ部落に住みよく知っていたが、同人らとは一緒に昭和石材の倉庫へ銅線を盗みに行ったこともあったので、そのときのことと感違いをした」と供べている。4・23、4・24各(裁)調書は、前記4・1から4・18までの藤(検)調書とその内容においてほとんど同一で、5・13藤(検)調書は、二月一九日事件につき前記4・11藤調書の内容をさらに若干補充又は訂正しているが、「宇津木が東から二番目の貨車に乗ったのは見たが、サイドブレーキの上かどうか判然としない。この貨車にサイドブレーキはかけてなかったと思う。」と述べている。最後に6・11藤(検)調書で、「只今八王子地区署に勾留中だが警察官にいじめられるようなことはなく、刑務所に移監してもらいたいとは思っていない」旨述べていることは、宇津木、西村と同様である。

(四) 岩井の自白(供述)について

記録によれば、岩井は、西村と同様、昭和二八年一月一九日本件で逮捕(以来勾留中昭和二八年九月七日保釈釈放)されてから、捜査官の取調に対し、当初はあいまいな供述を続けたが、やがて宇津木、西村、池田らと同様犯行の一部からはじめて逐次各犯行を自白し、一審第二回公判でも犯罪事実を認め、一審否認組第二七回公判における証人尋問の際も被告人らの犯行を供述したが、同第二八回公判で弁護人から反対尋問を受けるに及び従前の供述を飜して犯行を否認し、同第二九回、第三〇回公判でも否認を続けた。ところが、その後偽証容疑により逮捕されるや、検察官に対し偽証の事実を認め再び本件犯行を自供するにいたったが、その後一審における審理の途中で病気のため公判手続を停止されて現在に及んでいるものである。以下これまで同様、当審で提出された同人の捜査官に対する各供述調書及び一審で取調済の同人の検察官に対する各供述調書、公判廷における供述につき、供述の跡をたどってみることとする。

岩井の1・19和田(警)弁解録取書から1・25河野(警)調書までに見られる供述は、「一昨年の秋ごろ宇津木に頼まれ、池田その他合計六人ぐらいで電車線路に石をのせたことがある」とか、「小作駅付近で電車の通るのを妨害したことが二回ある」とか、「皆から『行かなければやきを入れるぞ』といわれたので、一緒について行ったが、皆が石をつめるのを見ていただけで手は出さなかった」とか、「二度目のときは現場まで行かないで途中から逃げ帰ってしまった」とかいうことで、あいまいで、具体性に欠け、とうていまともな供述とは見られない(右は実質的な意味では完全な自白とはいいかねる。すなわち、岩井は一審否認組第二八回公判が逮捕後一〇日くらいたつまで犯行を認めなかった旨述べているのであり、検察官はそれは事実に反するというが、当時青梅市警の刑事である証人安田利中の一審証言によれば、同人が福生地区署に開設された捜査本部へ派遣されて同署へ行ったとき(和田証言によれば一月二七日、保土田証言によれば一月二六日)、岩井はまだ否認していてその後自白した旨同署から連絡があったということと次に述べる2・1斉藤調書中の記載とを総合すれば、岩井の各供述は単なる弁解とは解されない。)。2・1斉藤(警)調書になって、「今まで警察の取調に対していろいろいい加減なことを言ってきた、私が嘘をついていたのは悪いと思っているが、出てから宇津木達からおどかされるのではないかと心配で本当のことを言うことができなかった、しかし今日は記憶に基づいて本当のことを言う、宇津木から誘われて電車にいたずらをしたのは二回である」と述べたのち、はじめて一〇月一日事件を岩井を含め宇津木、池田のほか、名の知らない男二人の五人でさきに小作駅東方で、それから河辺駅の近く小作駅寄りの方で一緒に行ったことをはっきり言い、2・7安田(警)調書では「私は小さいときから物事を忘れることがある。それは三才のとき脳膜炎にかかり、さらに一八才のときジープにはねとばされ頭を打って約四ヶ月入院したことなどが原因している、それで覚えていることだけ申上げる」とて、一〇月三日事件につき、共犯者は岩井のほか宇津木、池田、西村、中垣弥一、石田の六人であること、岩井が電柱を鋸で切ったこと、鋸は西村が宇津木に言われ河辺の方に向って自転車で行きセメント袋のようなものに包んで持ってきたことを述べ、2・8安田(警)調書では、一〇月一日事件の共犯者として今まで名を知らない男二人となっていたのに対し、中垣弥一と西村の名を出している。

2・11桑名(警)調書から約一ヶ月の調書作成の空白があって、3・11安田(警)調書で九月一七日事件のことがはじめて述べられていることは、これまでの宇津木、西村、池田らの場合と同じようである。すなわち、共犯者は宇津木、池田、西村、中垣兄弟、大沢、岩井の七人で岩井はこの事件のときはじめて西村、中垣のせな(好一)、おきさん(大沢)の三人を知ったこと、犯行前皆が集まった際岩井が屁をして中垣の兄に後腰を蹴飛ばされたり、岩井が「嫌だ」と言ったら、中垣の兄に左右の顔面を殴られたこと、その他好一が皆の役割を指示したことなどを述べている。3・23安田(警)調書では、九月一七日事件につき述べた前記七人に石田とめがねをかけた男の両名を加えた合計九人が一二月八日事件を犯したこと、犯行後中垣の兄が西村、池田、岩井の三人に口止めしたことを述べている(保土田の当審証言によれば、同人は、三月中旬青梅地区署に行って捜査室で岩井に会い、ストーブのそばで雑談しているうち「岩井は小作駅だけのいたずらしかしてないんだらう」と聞いたところ、同人はしばらく考えていたが、煙草をやめて下を向いてしまった、それでこれはほかにかくしているものがあるじゃないかと思い二階の休憩室に連れて行って聞いたところ、福生駅でもいたずらをしたと言って一二月八日事件を自供した、その直後宇津木に事実を確かめ、さらに一、二日後に池田にも尋ねたというのである。)。3・26安田(警)調書(一一回)では九月一七日事件につき、人員が違っていたのでその人達のことを述べるとして見知らない二人の男を加え、そのうち「めがねをかけないのが山下だと判った、他のめがねをかけた男は只今一寸忘れている。」と述べ、3・26安田(警)調書(一二回)では、「一〇月一日事件のときの人数は、前に思い出せず判らないまま少なく言っておいたので、つけ加える」として、前述の五人に中垣好一、大沢を加え、「小作駅東側第三踏切で中垣の兄から命ぜられて×印のようのものを抜き、線路上に横たえた、馬頭様に引揚げてから中垣の兄から『手前なんかいても少しも役に立たないから帰れ』と言われて帰った」旨述べ(この部分は、前に2・1斉藤調書では中垣の兄の代りに宇津木が命令したようになっており、又3・23安田調書で九月一七日事件につきすでに野崎の名を出しているのに、ここでは出さず、後述の4・24吉良(検)調書で野崎を加えている。)、3・26安田(警)調書(一三回)では、一〇月三日事件の共犯者として宇津木、中垣の弟、池田、西村、岩井、石田の六人に中垣の兄、大沢、山下、めがねをかけた男の四人を加え合計一〇人であると述べている。4・2安田(警)調書は二月一九日事件について最初に供述したもので、共犯者は、宇津木、西村、池田、石田、岩井、中垣兄弟、大沢、山下、野崎の一〇人であること、実行行為として、「山下が二両目と三両目の貨車の間に入って鉄でつながっているところやホースをはずし、宇津木が貨車の南側の横についていた鉄製のブレーキのようなものに足をかけて上り誰かが止め金をとり、貨車を六人で押したが動かず、野崎が家の方に走って行き六尺くらいの長い木のようなものを持ってきて車輪と線路の間に入れ上下に動かしはじめると貨車は動きはじめた、六、七回くらいやって動くと野崎は走ってうしろの貨車へ行った」こと(4・11吉良(検)調書によれば、二輛目と三輛目の貨車の連結器を外したのは池田と西村に変り、野崎の行動に関するもっともらしい供述は、のちに5・11吉良(検)調書からは何らの説明もなく消えてしまっている。)などを述べている。その後4・11、4・13、4・23、4・24、4・28各吉良(検)調書等で、二月一九日事件、一二月八日事件、九月一七日事件、一〇月一日事件、一〇月三日事件につき、つぎつぎに従来の供述を補充訂正し、最後に5・11吉良(検)調書で本件全部について整理した形で述べているが、従前の供述と対比して見るとき、とうてい同一人の供述とは思えぬほど詳細かつ明確になっているのが目立つ。6・11藤(検)調書(後綴り)では「現在青梅地区署に勾留中だが警察官にいじめられたようなことはなく、刑務所に移監されるより現在のところにいる方が良い」旨述べているが、このような供述は宇津木、西村、池田に対する同じ検察官の同じ日付の調書にも見られることは前述のとおりである。

(五) 大沢の自白(供述)について

記録によれば、大沢は昭和二八年四月九日野崎、山下の両名とともに九月一七日事件につき逮捕引き続き勾留され、以来捜査官の取調を受け、当初否認していたが、同月一八日はじめて自白し、その後検察官の取調に対し本件各犯行を認め、六月以降再び否認に戻ったものである。以下当審で提出された同人の捜査段階における各供述調書、一審公判で取調済の捜査官に対する各供述調書の内容を概観すれば、次のとおりである。

4・9保土田(警)弁解録取書から4・14斉藤(警)調書までの四通はいわゆる否認調書で、4・18保土田(警)調書には、「一昨年の九月末か一〇月の初めと思うが、中垣のセナ(好一)等と悪戯をしたことがある、中垣弥一と知らない男が誘いにきた、あとから宇津木、岩井、名を知らない河辺の男らが一緒になり、七人ぐらいになった、中垣のセナと名を知らない男から小作駅の東の方で線路に悪戯をしようという話が出た、みんなで小作駅の東の方に行った、私は踏切から東の方に行き線路の上に小石をのせた、踏切から駅よりに行った人はどんな悪戯をしたか知らない」とあって、大沢が九月一七日事件を一応自白したものと見られるが、具体性に乏しいきらいがある。そして一審公判で取調済の大沢の検察官に対する四月二一日から五月二八日までの各供述調書は、同人が本件各犯行を犯したことを詳細に述べたものであるが、6・2(裁)調書は否認調書で、捜査官に対し自白したいきさつないし事情を詳述している。すなわち、同人は「最初刑事から調べられたとき『絶対した覚えはない』と言ったが、四月一七日か一八日に宇津木が調べられているところへ連行され、衝立ごしに同人の述べている『小作駅に行く途中長岡まできて中垣の弟に大沢を迎えにやった』などということを聞かされてから、別室で刑事主任らから『いたずらをしないとは絶対言わせない』ときびしい取調を受けたので、ついに実際はやっていないのに、『やりました』とさきに聞かされた宇津木の言葉を思い出して九月一七日事件のことを述べたのをはじめ、その後一〇月一日事件、一〇月三日事件、一二月八日事件のこと又鋸については自分の家のものを持って行って使ったということなどを述べた、刑事は地図を書いて『ここをやったか』と聞き、大沢の答えにうなずくこともあり、又『違うではないか』と言うこともあるといったような調べ方をした、検事の取調は刑事の取調後なされたもので、藤検事には最初否認したこともあったが、結局警察で言ったとおりを述べさせられ、吉良検事のときはあきらめて否認もしなかった、裁判官の証人尋問に対し犯行を否認するのは真実を申上げることを宣誓したのに、事実やっていないことをやりましたと言うのはいけないことで、真実やらないと言うのが道であると思うから」というのである。

ところで、以上概観したとおり、被告人宇津木、西村、池田、岩井(大沢については後述)の各自白について、その供述の推移を検討すると、本件の五つの列車妨害事件について、最初の自白から最後に一審判決の判示にそう自白に到達するまで、共犯関係、連絡謀議、集合経過、実行行為の手順、犯行の動機等につき、およそ異常と思われるほどいくたびか相互に矛盾する供述の変転を重ねており、とくに共犯関係や一〇月三日事件に関係があるとされている鋸、バールの出所などについてのそれは人の目をみはらせるものがあるばかりでなく、そのような供述の変化が、おおむね宇津木を先導にして、ほぼ同じころに同じような内容を伴って各被告人に一様に現われているのも奇異である。しかも、この供述の変更の理由については、単に「今までは嘘を言って申訳ない、今度こそ正直に述べる」といいながら、次にはいつしかまた「それは嘘であった」ということになるだけで、供述者から首肯するに足る説明は全くなされていない。このようにして、二月九日の起訴前の自白によれば、犯行は二件、共犯者も五人ないし六人ぐらいのものであったのが、右起訴後二〇日ないし一ヶ月以上にわたる調書作成の空白期間を経過するや、自白にかかる事件数もあらたに三つを加え、共犯者も最後には多いのは一〇人にもふくれ上り、犯行の動機も首謀者も一変し、町の不良による悪戯と思われたものが、ついには共産党員による計画的犯行らしきものにまで変貌するのである。そのときどきにおける供述をみると、きわめて具体的かつ詳細で直接体験したものでなければ述べられないように思われる内容をもつ供述が、次の機会には嘘であったとして崩壊していくとき、真実とそうでないものとの区別がむずかしく、最後に残ったものが真実であるとの保障は必ずしも与えられないといわなければならない。これらは、もはや単に忘れていたとか記憶ちがいであったというような理由で説明のつくものではない。一例を一〇月三日事件の自白にとれば、その当初には、事件発生当時警察署に留置されていて事件に参加するすべもない伊藤順二郎なる者が共犯者の一人として述べられていたし、又被害事実の存しないワイヤロープ切断の事実さえも実際に犯したことのように述べられ、いわば客観的事実に反する自白も含まれていた。しかも、それが宇津木からも、池田からも軌を一にして語られているのである。およそ架空の事実をたまたま二人も揃って進んで任意自白するがごときは普通考えられるところではない。創られた事実は次の例にもみられる。めまぐるしく供述の変転を見せながら最後に「野崎から受けとった」というところで一応捜査の終了を告げた鋸の出所についても、初期の池田の自白の中には、「それは宇津木が自宅から持ってきた、その柄に焼印が押してあったので、同人宅の物に相違ない」というのもある(後に警察で調べたところ宇津木家にそういうものがないことが判明した、と和田証言は述べている)。さらにまた二月一九日事件について、西村の4・8大館(警)調書によれば、「貨車が動かないので野崎がどこからか六尺ぐらいの長さの鉄丸棒でできたバールを持ってきて二輛目後方のホーム側の車輪にかけてこずいたら動き出した」とあり、又岩井の4・2安田(警)調書によれば、「貨車を六人で押したが動かず、野崎が家の方に走って行き、長い木のような物を持ってきて、車輪と線路の間に入れ上下に動かしはじめると、貨車は動きはじめた」とあって、いかにも見ていたような状景を、それも二人も揃って述べているにかかわらず、いずれも後間もなく消えており、これは捜査当局側でも明らかに虚構の事実と認めていると思われる。又同じ事件について、宇津木の最初の自白にみられるところの「犯行前に被告人らが待機した場所が小作駅東方第一踏切の南側にある下田方横である」「宇津木らが残留四貨車を一度に押した」との供述は、後にすぐ変更され、一審判決の基礎になった自白と比べるとき、同事件に関する自白の信用性を疑わしめる一資料ともなるべきものとして注目すべきである。検察官は、被告人らの供述にあらわれている「事実の秘匿」について、犯行の際口止めが厳重に行われており、最初検挙された者は共犯者を極力秘匿しようとしていたので、虚偽をまじえた供述をなすにいたったのであると弁論する。なるほど、宇津木は、「好一、野崎、山下、大沢らからその都度口止めされバラしたら恐ろしい目に会わされると思っていた」といい、又西村は、「犯行直後絶対に警察に捕っても話さないと堅くお互いの約束があり、外に出たとき仲間の者にいじめられると思い言えなかった」と述べているが、しかし、同人らが述べた共犯者の範囲は初期においていち早く五人ないし六人に及んでいる反面、その後にも首謀者格といわれる好一らの名を比較的早く出しながら、野崎、山下の名はかなり後になるまで出さなかったのはどういうわけであろうか。ことに好一の名を出してなお野崎の名を残す理由などは同人らの弁明からは決して出てこない。又この点について、池田や岩井は必ずしも宇津木らと同じような説明はしていない。なお、宇津木の1・21和田(警)調書によれば、すでに弥一、西村の名は共犯者としてはじめから挙げているのに「今まで弥一や西村のことをいわなかったのは弥一のことをいうと、自分が刑務所を出てから殺されると思ったからである」と述べているが、ここにいたっては、それが果して宇津木の真意に出た供述かどうか疑わずにはいられない。検察官は和田証言を援用し、「最初に一〇月一日事件、一〇月三日事件について自白があったとき、この事件はすでに捜査が打切られていて捜査当局の念頭になかった、それを被告人の方から進んで自供したのであるから、それは自供調書の信用性を証明する重要な事実である」という。しかし、進んで任意自供したというのに、一部の事実だけ出して、なお残りの事実を秘し、かつそこに虚構の事実まで交えるというのは不可解である。その他検察官は、調書に記載されているところの被告人らが取調の際何気なく洩らした言葉とか、和田証言等を引用して被告人らの供述の信用性や警察官の強制誘導がなかったことの証左としているが、本件において記録にあらわれた和田証言その他警察官の調言には必ずしも全面的には信用し得ないものがある。たとえば、和田係長の一審証言中「宇津木の警察で作成した調書は大してない、検事がほとんどとった、事件の全部のはない、十月一日と十月三日の事件のが若干ある」と述べているが、さきに述べたように当審で検察官から新らしく提出された捜査段階の供述調書を見れば、それが事実を語っていないことは明らかであるし、斉藤刑事の一審証言中「大沢が自供をひるがえしたのは、たしか四月二〇日と思うが、訓示場で調べをしたとき昼過ぎごろ、選挙のトラックがきて『中にいる人頑張れ、青梅事件はデッチ上げだ』というようなことを言っていた、それで大沢は前の自供をひるがえしたと思う」と述べ、弁護人の反対尋問で、「その当時衆議院議員選挙の投票日は四月一五日か一九日であったが、どうか」と問われるや「いや投票はたしか四月一九日であった、するとさき程述べたのは間違いである」といい直しているけれども、これも、事がらの内容からみて、単なる感違いで述べたものとは思われない。ことに、二月一九日事件の重要な証拠となっていたいわゆる「現場写真」について、一審では岸野巡査がみずから撮影したものとして法廷で証言したのであるが、当審での証拠調の結果、そうでないことが判明したことは、すでに述べたとおりである。同人を証人として当審で取調べたところによれば、当時自分が撮影したものと誤信していたと弁解するが、裁判所は情況からみて単なる誤信とはたやすく信じがたい感を抱いた。これも警察官の言動に不信を抱かせるもとにならないとはいえない。本件について、記録にあるとおり、被告人らは取調べに当った警察官の暴行の事実を訴え、警察官は法廷の証言でこれを否定している。しかし、さきに述べた伊藤順二郎の一審証言によれば、「一月一九日警察(福生署)に呼ばれたとき、刑事が『一寸こい』と裏へ連れて行き、大勢の刑事が、事件の内容を言わず、『やったのではないか』とかなんだかんだひどくされ、気が弱いので泣き面した。『やったならやったと言え』と髪の毛を引張ったり、四時間ぐらい怒鳴られた。背中の方から押されたりもした。当時のことを言おうとしたが、あまりおどされて言えなかった。その後瑞穂へ連れて行かれ午后八時か九時ごろ手錠をかけられたまま房に入れられ一晩中眠れなかった。翌日また福生署に行き市制祝の当時はアメリカさん三人と酒を飲んで暴れ青梅警察に挙げられていたことを話したら、すぐ釈放された。釈放されて情ないと思った。」というのであり、これによっても、当時の被疑者に対する警察の取扱が推察されるのであって、警察官の証言は必ずしも一概に信用できない。前述のように、被告人らの自白は、調書によれば、早い者は一月一八日から始まり、三月下旬から四月中にかけてほぼ完成されてきたとみられ、その間被告人らはもちろん勾留中の身であった。そして、主要な自白は、むしろ最初の二月九日の起訴があってから後に多くみられるということができる。以上の各事実を考え合わせると、警察官に対する被告人らの自白は、任意進んでされたものではなく、少なくとも取調官の言動から心理的圧迫を感じ、そのため意に反して真実でないこともこれを容認して供述せざるを得ない立場に追いこまれた結果によるものと疑うべき十分の余地がある。このような場合その供述の内容が必ずしも取調官の誘導に基づくものだけでなく、これに供述者の創作を加えたものがあったとしても、不任意であることを妨げるものでない(なお、当審で検察官から提出された宇津木、西村両名の九月一七日事件、二月一九日事件についての警察における供述を録音したテープが取調べられ、検察官は、右は宇津木らの自白の信用性を証明する重要資料であるというが、そのテープは昭和二八年五月一日に収録されたもので、当時すでに捜査は終末に近く、被告人らの供述はいわゆる固った段階にあり、録音中に所論の瑣末の新供述が見られるからといって、供述全体として何ら新味のあるものではなく、宇津木、西村の自白の信用性、任意性を証明する資料として、特別に意義のあるものとは解されない。)。検察官に対する自白については、もとより取調べる側から供述者に対し直接強制的圧力を加えた事実は認められないけれども、同じ捜査の一環としての取調べであるし、供述者としては警察での取調べにすぐ引続いてのことであるため、前者から受けた心理的圧迫からなお抜けきれない状態下にあり、又警察官の取調べは検察官の取調後も継続され、しかも当時被告人らは代用監獄としての警察署の留置場に勾留されていたのである(宇津木、西村、池田、岩井四名に対する6・11藤(検)調書によれば、いずれも口を揃えて刑務所に移監されるよりも警察署に置いてもらいたい旨を検察官に訴えているが、果してその真意に出たものかどうか疑われる。)から、事情は警察の場合とほとんど変らない。裁判官の尋問も、検察官の場合と同様同じ捜査の一環として、捜査官の請求に基づき、警察官及び検察官の取調継続中なされているものであるから、これを供述者の立場からみれば、これまた情況は異るものでない。要するに、捜査段階における宇津木らの自白は、その信用性に疑があるばかりでなく、その任意性にも疑がある(大沢についても、その自白がなされた当時は、宇津木らの自白がすでに固った段階にあり、大沢の自白は右の影響下にあったと認められ、捜査における大沢の立場は、宇津木らと異るところは認められないので、右自白について別異に解さなければならないいわれはない。)。これに反し、右と事情の異る公判廷における自白(証言)については、公判手続の性格に照らし、反対の確証がないかぎり、その任意性を疑い証拠能力を否定することはできない。本件ではそのような確証はない。しかし、一般に、公判廷における自白の信用性が高いことは、検察官所論のとおりであるけれども、本件の場合、右自白(証言)にいたるまでの前述の経過にかんがみ、それが捜査段階における最終の自白と、ほぼ内容を同じくし、同一の基礎に立つものと認められる以上、その信用性には疑があるといわなければならない。

一五、結局本件は、犯罪を証明するに足る証拠はない。したがって、本件について有罪の言渡をした一審判決は、判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認を犯したもので、破棄を免れない。

よって弁護人及び被告人らのその余の控訴趣意に対する判断を省略し、刑事訴訟法三九七条三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、次のとおり判決する。

〔当裁判所の判決〕

本件公訴にかかる電汽車往来危険、同未遂、電汽車往来危険破壊の事実については、すでに述べたように、犯罪を証明するに足る証拠はないから、刑事訴訟法三三六条後段により被告人全員に無罪の言渡をする。なお、被告人宇津木に対し、原審の確定した強盗予備、窃盗の事実につき(証拠関係は原判決所掲のとおり)法律を適用し(強盗予備の所為につき、刑法二三七条六条、窃盗の所為につき同法二三五条六〇条、併合罪の加重につき同法四五条前段四七条但書一〇条刑の執行猶予につき同法二五条一項)、同被告人を懲役八月に処し、裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予し、原審における訴訟費用の負担は免除する。

(裁判長判事 足立進 判事 浅野豊秀 判事渡部保夫は転補につき、署名押印することができない。裁判長判事 足立進)

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